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共通テストは、戦前の"大政翼賛会"の如きもの

 以前、このコラムのどこかしらで言及したこと、いや、日本中のみならず、だいたい、世界中の未成年から中等教育の教育関係者にまで意見の一致がみる点である。それは、日本の中高生は、18歳までは、世界で一番優秀な部類に入る、それが、大学生ともなると圏外にはじき出される。勿論、勉強しないという点が最大の要因の一つでもあろうが、世界のベストテンから放逐されてしまう現実があるということだ。この意見、ハーバード大で教鞭をとり、開成高校の校長を長きに勤められた柳沢幸雄氏の感想でもある。まるで、高校野球では、アメリカを凌ぐ、いや、同等レベルであった球児が、メジャーリーガーと日本プロ野球選手では、格段の差がでてくる実体と似ている。当然、ヤンキースやドジャースといったメジャー球団の財力・マネジメントと巨人や阪神といった球団のそれとは、断然スケールやレベルが違うように、ハーバードやイェール大学と東大や早稲田の教育費や研究費、設備などといった面での、格段の差としてアスリートのみならず大学生にも大きな能力や実績といったものに跳ね返ってくるのは致し方ないにしろ、見えない、最大の要因は、私見ながら、日米(英)の大学入試問題の質にもあるように思えて仕方がない。

 日本の中高一貫の私立校に入るための小学校6年生が洗礼を受ける入試問題は、それぞれその学校が個別にする。当然問題も千差万別である。ユニークさがでてくる。しかも、ほとんどが記述形式で、その学校が欲しい少年少女を掬い取ろうとする好意的・善意的、良心的問題である。高校入試も、公立高校から、一部の私立校、開成や灘といった高校枠の受験問題も同類といえる。記述形式で、採点も融通無碍、臨機応変に採点できるという意味で規模も大きくない。こうした、中高への関門という試験が、ある意味で、日本の中学生や高校生の学力プラス頭の良さという面で担保してもくれている。

 これが、大学入試となるやどうであろうか?

 時代は多様性にあるとする。日本の大学入試も、一見、それに順応しているかに見える。しかし、実体は、真逆である、日本の入試問題は、入試の“大政翼賛会”に組するように、同調圧力が働いてもいる。 

 センター試験の私大利用枠、英語科目の英検利用システム(私大に多い)、センター試験の一部科目利用(私大に多い)、こうした私大のセンター試験におんぶにだっこ方式、モザイク国家の如き、猫の目のように変化する受験システム(総合選抜から指定校推薦まで)は、受験生には、聞こえのいいバイキング方式・アラカルト方式という風に、出願できるようになってきている。だが、これは、試験システムの多様化であり、入試問題の多様化ではない。むしろ、昭和の時代に、それぞれの私大が独自に、それぞれの国公立大学が、二次試験を、独自に必須にしていたシステムの方が、まだ、問題の多様性という意味で、オリジナリティがあった、また、ユニークでさえあった。
 現今の大学入試システムは、高校3年生のリクルートの一貫、八方美人的入試による学生集めの手段とさえいっていい。あらゆる選択肢(自分に好都合な組み合わせ)で、当大学に入れますよ、是非、複数受験して我が校へ、というメッセージ性すぎない。
 今や、少子化である。少子化に乗じて、小学校から高校まで、20人学級までとは言わないが、せめて30人学級を実現するどころか、教員の数を減らす、非中堅教員が、従来の40人学級を受け持たされる不自然さ、このブラック職場の現況と同様に、受験生の減少、いや、学生数の減少による質、学力、資質の担保の側面からも、入試というフィルターを、温かく、厳しく、精査できるものとすべきなのに、一向に、私大でさえも、この国民行事的大学入試共通テストにおんぶにだっこといった有様であり、多くの大学当局の迎合度は加速するばかりである。私立大の、ひと昔前の入試の気概とやらは、何処へいってしまったのか?国公立でさえ、この一次試験ともいえる、共通テストのみで決めてしまう大学さえ増えてきている(一次試験重視という意味も含めて)。私大は、入試問題作成の経費節減で、この共通テストに、合否の判定をアウトソーシングする大学も急増するありさまである。これでは、戦前の近衛内閣の時代の、<入試制度の大政翼賛会>と何ら変わりはないともいえる。これこそが、私が、この共通テストが、<亡国への教育的悪因>と裁断する要因なのだ。

 入試問題は、中高のみならず、大学においても、その学校当局のメッセージでもある。確かに、昭和の時代は、その毛色は濃かった。特に、共通一次試験以前の、旧一期校、旧二期校と区別(差別?)されていた時代は、私大もそうであった。これが、平成に、共通一次試験がセンター試験へ、それも私大利用システムと変貌するや、公的試験の(?)国公立志望者が母集団の入試問題に、私大がひれ伏すかのように、その軍門に下ってもゆき、早稲田大学が象徴的なのだが、その国民行事的試験が、まるで、十年前の安倍派の如く、平安末期の平氏のように、我がもの顔に、モンスター化し、国公立試験の二次試験すら軽視する、また、行わない大学まで出現するありさまとなっていった。この傾向は、現場の小学校から中学校における、英検の権威の拡大とも比例する。その背後には、大学入試センターと英語検定協会の、背後での、闇(利権関係の)における、自民党文教族(下村博文など)の政治的圧力が感じられる。それは、また、世の中のデジタル化を大義名分に、従来の入試問題を否定する、思考力・判断力・表現力などをおまじない文句にして、従来の英数国理社の枠踏みをはみ出す、標準的地頭の高校生では対処しきれない、現場の教科担当教員では教えようがない、ある意味、従来の予備校・塾でさえ、高得点を指導しようにもできない、いわば、指導する者が手に負えない魑魅魍魎たる形式のモンスター試験として、令和の初期に出現した。この怪物、中高の現場の教場を荒らしまくってもいる。
 私が、言いたいのは、東京藝大の入試方式を、見習えという観点なのだ。国立なので、その制度、システム上、最低限の学力は判別しなければならないという建前・前提があるものの、あくまでも、その学力は参考程度なのだ。二次のデッサン力や演奏のテクニックなど、これがあくまでも最重要視される試験である。ここまでとは、言わないが、そうである、欧米の大学が行ってもいる、ユニークな入試問題を科す、また、アメリカの大学におけるエッセイを必須として、その学生が、教えたい、入ってもらいたい、ともに、研究したい、そう当局が感じる学生を選別する入試を、それぞれの大学で行うというものである。数千人から数万人にわたる、マンモス入試の日本の私大では、それは、高嶺の花、絵に描いた餅の入試プランというものだと指摘もうけよう。しかし、日本の中高の入試システムは、それに近い質のものである。昭和の時代、確かに、今よりも学生数が多かった時代に、入試の多様性、問題の多角化という側面で、令和の入試問題は、単一化、集約化してもいる。これほど、多様性、価値観の多様性と叫ばれながら、入試システムという面で、マークシート居士という、その学力以外の側面を量ろうとしない、悪意に満ちた問題をだす、大学入試センターという機関、その背後にいる文科省、しかも、この一次の共通テストを絶対化する、世の中の受験の風潮、これこそが、声を大にして批判しない現況を、私は憂いてもいるのである。

 大政翼賛会の方針、大東亜共栄圏・五族協和・八紘一宇が、大学入学共通テストの理念、思考力・表現力・判断力にダブって見えてきてしまう。



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