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コラム
<暗記と記憶>序説
これから何回かにわたり、暗記と記憶という観点から波及した世の渡世術ともいえる、暗記力と記憶力について考えてみたい。
一般的イメージ、子ども、いや、子どもから少年に移行する際、この暗記力という言葉が、朝陽が昇るように、強烈な明るさ、眩しさとして、自身の脳力、一部の身体的能力として意識されてもくる。いわゆる、テスト、試験、そして受験という通過儀礼における最大の武器とも自覚されてくるからである。その少年少女にとって「よくそんなくだらないこと、そんなどうでもいいことをよく覚えてるわね、もっと漢字を覚えなさい、もっと歴史や地理を覚えなさい!」と親から愚痴られるリビングの光景が思い出されもする。人間は、興味や関心のあるものは、黙っていても、不思議と頭が吸収していくからだ。好きこそものの上手なれの真実がここにある。
一方、嫌いな勉強は頭には入らない。この嫌いな勉強を、せめて興味ある、面白い方向へ誘導する名人は、世間に名高い中学受験塾の講師に多いのは有名な話である。この愚痴られる子どもの鉄道知識、昆虫知識を笑ったりしてはいけない。それと比較し、国語算数理科社会の知識を云々かんぬんしてはいけない。それはそれでその子の長丁場の人生の武器となり、無意識がその後意識的に浮上するプライドとなる種、また卵ともなりうる可能性を秘めたものであるからだ。これと似たようなことを、ユニークな人気歴史家磯田道史氏も語っておられる。これからは人のやらない事、くだらない事、それをどれだけ覚えているかが武器になるそうだ。
この暗記、恐らく、受験という言葉とコインの裏表と捉えている者が多い。これ、がり勉派のメンタルの象徴ともされるからである。また。学びにおいて、まだ未成熟・未成年の証でもある。
この暗記、また、暗記力、これは、青春の匂いがぷんぷんとする。なぜか、これは、脳の成長と年齢が16,17までくらいの身体の成長と正比例するからだ。これが、いっぱしの大人、社会人ともなると、記憶、記憶力という呼び名に変貌する。おそらく、中等教育から高等教育にかけての教科的知識が、忘却の閾に沈み込んでゆく現象に、その速度に、記憶力は追いつかなくなってもゆくからだろう。身体的成長が止まる、脳の暗記モードが回路的に衰える、そこで、呼び名が、記憶力と広義の用語へと変質する。
ものを覚えるという行為における青春の呼称が、暗記だとすれば、その後の人生の呼称が、記憶ともいいっていい。熱き甲子園球児が、真夏の炎天下で、白球を追い、白球を打つ、その光景に、暗記力という後ろ姿がかぶって見える。高3の受験のピーク2月が、球児の3年の夏ともいえようか?
甲子園というトーナメント、一発勝負の、負ければ、それで終わりの世界、一般入試の、しくじったら、それで不合格、その緊張感の、影のパワーは、記憶力のコンディションによるものといっていいところだろうか。それが、人生90年の長丁場ともなれば、短期決戦ではない。何回負けても、何回失敗しようが、最後は、何度も何度もチャレンジして、最終的に勝てばよい、そういう修羅場が、20代以降の世界である。暗記力という短期決戦向きの武器より、記憶力、いや、どれだけ長く覚えているか、それが、ビジネスであれ、研究であれ、趣味であれ、ものを言うのである。高校球児の3年間、それが記憶力の独壇場、プロ野球の10数年、そしてコーチや監督時代を含めた20年以上、それは、記憶力の檜舞台でもあろうか。
暗記とは、短期の戦術、記憶とは、長期の戦略、それは観方によれば、経験とも言い得よう。大学受験においては、丸暗記で覚えた歴史の知識は、ほとんど忘れるか、役に立たない<点>として頭に残る。修学旅行の、京都や奈良の光景に近い。様々な寺社仏閣が、<点>として記念写真として残るが如しである。これは、体験としての知識であり、経験とは、言えない。体験とは、それを自身が吸収し、無機質な知識が増殖してゆくことに過ぎない。一方、経験とは、それを消化し、それが有機的な知識へと成長し、それ以前の自我とそれ以後の自我が、変貌する。その変貌した自己の強烈な自覚が経験でもある。<点>が<線>となり、<面>となった瞬間でもある。日経新聞の“私の履歴者”に掲載される有名人は、大方、後者の経験派である。
この暗記力というものは、標準的な受験生には、直線的、猪突猛進的な努力と同義に映る。嫌なことを、マイナスイメージの修行僧にも似て、刻苦勉励の如く、知識を脳裏に、力ずくで定着させようともがく姿が、その実相を顕してもいよう。ここに、暗記イコール“悪”や“マイナス”のイメージがまとわりつく。そこには、興味や関心どころか、理解や納得という学びの本質を通り越して、まるで、犬や猿に芸を教えるが如く、自己に対峙している、いや自己などない光景が浮かび上がってもくる。それも批判はできない、まだ、ものごころも四捨五入すれば、大学生より小学生に近いメンタルの発展途上人(中高生)を、独学の荒野に放し飼いしていうようなものだ。ここに、友人、教師、講師、そして、親という存在のチャート(海図)的先達が、暗記から記憶へと、せめて代えさせてくれる僥倖があれば幸いなのである。この存在、この日本では、一般論として、塾・予備校の存在が半数以上その役割のウエイトを占めている。勿論、学校の、その教科の教師が役割を果たす場合も当然あろう。この修道士・宣教師が、学びとは、暗記ではなく、理解に基づいた暗記、いわゆる、正しい記憶という姿に刮目させてもくれる。これは、文系の教師・講師は多いが、理系の教え人には少ないような気がする。ここに、理系離れの根源的理由がある。(つづく)
一般的イメージ、子ども、いや、子どもから少年に移行する際、この暗記力という言葉が、朝陽が昇るように、強烈な明るさ、眩しさとして、自身の脳力、一部の身体的能力として意識されてもくる。いわゆる、テスト、試験、そして受験という通過儀礼における最大の武器とも自覚されてくるからである。その少年少女にとって「よくそんなくだらないこと、そんなどうでもいいことをよく覚えてるわね、もっと漢字を覚えなさい、もっと歴史や地理を覚えなさい!」と親から愚痴られるリビングの光景が思い出されもする。人間は、興味や関心のあるものは、黙っていても、不思議と頭が吸収していくからだ。好きこそものの上手なれの真実がここにある。
一方、嫌いな勉強は頭には入らない。この嫌いな勉強を、せめて興味ある、面白い方向へ誘導する名人は、世間に名高い中学受験塾の講師に多いのは有名な話である。この愚痴られる子どもの鉄道知識、昆虫知識を笑ったりしてはいけない。それと比較し、国語算数理科社会の知識を云々かんぬんしてはいけない。それはそれでその子の長丁場の人生の武器となり、無意識がその後意識的に浮上するプライドとなる種、また卵ともなりうる可能性を秘めたものであるからだ。これと似たようなことを、ユニークな人気歴史家磯田道史氏も語っておられる。これからは人のやらない事、くだらない事、それをどれだけ覚えているかが武器になるそうだ。
この暗記、恐らく、受験という言葉とコインの裏表と捉えている者が多い。これ、がり勉派のメンタルの象徴ともされるからである。また。学びにおいて、まだ未成熟・未成年の証でもある。
この暗記、また、暗記力、これは、青春の匂いがぷんぷんとする。なぜか、これは、脳の成長と年齢が16,17までくらいの身体の成長と正比例するからだ。これが、いっぱしの大人、社会人ともなると、記憶、記憶力という呼び名に変貌する。おそらく、中等教育から高等教育にかけての教科的知識が、忘却の閾に沈み込んでゆく現象に、その速度に、記憶力は追いつかなくなってもゆくからだろう。身体的成長が止まる、脳の暗記モードが回路的に衰える、そこで、呼び名が、記憶力と広義の用語へと変質する。
ものを覚えるという行為における青春の呼称が、暗記だとすれば、その後の人生の呼称が、記憶ともいいっていい。熱き甲子園球児が、真夏の炎天下で、白球を追い、白球を打つ、その光景に、暗記力という後ろ姿がかぶって見える。高3の受験のピーク2月が、球児の3年の夏ともいえようか?
甲子園というトーナメント、一発勝負の、負ければ、それで終わりの世界、一般入試の、しくじったら、それで不合格、その緊張感の、影のパワーは、記憶力のコンディションによるものといっていいところだろうか。それが、人生90年の長丁場ともなれば、短期決戦ではない。何回負けても、何回失敗しようが、最後は、何度も何度もチャレンジして、最終的に勝てばよい、そういう修羅場が、20代以降の世界である。暗記力という短期決戦向きの武器より、記憶力、いや、どれだけ長く覚えているか、それが、ビジネスであれ、研究であれ、趣味であれ、ものを言うのである。高校球児の3年間、それが記憶力の独壇場、プロ野球の10数年、そしてコーチや監督時代を含めた20年以上、それは、記憶力の檜舞台でもあろうか。
暗記とは、短期の戦術、記憶とは、長期の戦略、それは観方によれば、経験とも言い得よう。大学受験においては、丸暗記で覚えた歴史の知識は、ほとんど忘れるか、役に立たない<点>として頭に残る。修学旅行の、京都や奈良の光景に近い。様々な寺社仏閣が、<点>として記念写真として残るが如しである。これは、体験としての知識であり、経験とは、言えない。体験とは、それを自身が吸収し、無機質な知識が増殖してゆくことに過ぎない。一方、経験とは、それを消化し、それが有機的な知識へと成長し、それ以前の自我とそれ以後の自我が、変貌する。その変貌した自己の強烈な自覚が経験でもある。<点>が<線>となり、<面>となった瞬間でもある。日経新聞の“私の履歴者”に掲載される有名人は、大方、後者の経験派である。
この暗記力というものは、標準的な受験生には、直線的、猪突猛進的な努力と同義に映る。嫌なことを、マイナスイメージの修行僧にも似て、刻苦勉励の如く、知識を脳裏に、力ずくで定着させようともがく姿が、その実相を顕してもいよう。ここに、暗記イコール“悪”や“マイナス”のイメージがまとわりつく。そこには、興味や関心どころか、理解や納得という学びの本質を通り越して、まるで、犬や猿に芸を教えるが如く、自己に対峙している、いや自己などない光景が浮かび上がってもくる。それも批判はできない、まだ、ものごころも四捨五入すれば、大学生より小学生に近いメンタルの発展途上人(中高生)を、独学の荒野に放し飼いしていうようなものだ。ここに、友人、教師、講師、そして、親という存在のチャート(海図)的先達が、暗記から記憶へと、せめて代えさせてくれる僥倖があれば幸いなのである。この存在、この日本では、一般論として、塾・予備校の存在が半数以上その役割のウエイトを占めている。勿論、学校の、その教科の教師が役割を果たす場合も当然あろう。この修道士・宣教師が、学びとは、暗記ではなく、理解に基づいた暗記、いわゆる、正しい記憶という姿に刮目させてもくれる。これは、文系の教師・講師は多いが、理系の教え人には少ないような気がする。ここに、理系離れの根源的理由がある。(つづく)
2024年2月 5日 16:28