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<数学は暗記だ>という言説について

 今や最も売れっ子の精神科医にして、鉄緑会の創設者和田秀樹氏が提唱した“数学は暗記だ”について考えてみたい。
 
 受験におけるという前提での“数学は暗記だ”という説を忘れて、数学オリンピック出場者並みの数学の天才からSEGという数学専門のエリート理系塾の秀才の中から、よく、この“数学は暗記だ”説を批判する声が聞こえてくる。
 一方で、文系国立志望者で、しぶしぶ数学をやらざるをえない高校生、また、理系でも準理系頭で、数学が悩みの種の高校生にとっても、その言葉から、“問題数をいっぱいこなして、それを覚えなくてはならないの?”といった、一種、ダイエットに悩む者にとっての食事制限的苦行のアドヴァイスとして聞こえる呪文でもあろう。
 
 「思想で大切なのは、何を語っかではなく、誰が語ったかだ」(マルクス)をよく脳裏に浮かべて、その言説を吐いた人物を概観することを旨とする人間として、この和田秀樹なるカリスマ受験指導者を考えたとき、やはり、灘中でトップクラスで入学し、その後成績は下位を彷徨い、高校3年に自身の勉強法を編み出し、成績がV字上昇し、現役で東大理科三類に合格した経歴に思いを巡らせると、数学の天才・秀才と数学の苦手な理系志望者の中間に、その言説の本質があるとみなさなければならないようだ。
 
 まず暗記と記憶の観点から、その峻別の基準は、<点>に集約されよう。その知識が<点>留まるということとその<点>が<線>に変化するということにある。前者はあんき、後者は記憶ともいえようか。知識に生命が宿り、知恵となった段階でもある。更に、その知恵が、得意といえる域に達するには、その<線>が<面>にまで変貌をきたさなければならない。そうした者が、初めて熟達した英知ともいえる数学の達人の域に達したという証明でもあろうか。 
 
 野球でいえば、カーブやシュート、シンカーやフォークなど変化球の打ち方の練習をそれぞれする。各選手、それぞれの変化球ごとに練習をする。それを、つぎの段階で複数交えて変化球の練習をする。読みや球への瞬時の対応などが身体に沁みつく。これは、初期の暗記の段階である。
 しかし、本番、実践では、相手投手は、どんな変化球を持つ投手か、バッターのうかがい知れない変化球を開発した投手かもしれない。その投手にその打者は対応しなければならない。練習場の打席とは、状況がまったく違う。緊迫感・緊張感も当然メンタルを覆う。その状況で相手の投げる直球を含め変化球に対応しなければならない。練習用のカーブやフォークなどは、山本由伸や千賀滉大のそれと比べれば桁外れに易しいものだ。千賀のお化けフォークを芯から外れてポテンヒット、これも、数学における途中まで解けたが解答までには至らなかった部分点とやらに似てもいよう。これをどう料理するかが課題となる。それを捨て問題として、見送る。山や勘で、自身の打ち返せそうな変化球に狙いを定め、打ち返し(解答)得点へと結びつける。5~6題の数学問題の、試験最中での見極め、これが勝負を決める。王貞治などは、打てない球は絶対に手を出さなかったそうだ。しかし、打てる球を絶対に打ちそこなわない、精確無比な選球眼とバッティング技術は類を見ないものだった。1971年の日本シリーズで王が阪急の山田久志から放った逆転サヨナラホームランは、その典型でもあろう。
 
 「本番で無意識に身体が動くように、意識的に練習する」(落合満博)~千賀のお化けフォークをポテンヒットする真髄はまさにここある~この言葉と、和田秀樹の“数学は暗記だ”は根底で似ているように思えてならない。
 
 野村克也の本によると、打者には、一般的に3種類あるそうだ。球種に山をはり、それでヒットするタイプ、これ、数学で沢山演習をして、だいたいそれに似た問題は解けるが、ちっと捻った問題は手が出ないタイプといってもいい。球種に山を張りながらも、いざ、狙いと違った球でも瞬時に身体が動き、対応するタイプ(イチロー)、これが大方、数学が得意とする秀才の域でもある。そして、どんな球がきても瞬時に本能的に身体が動いてしまうタイプ(長嶋茂雄)~この点でイチローが自分は天才ではないと吐露する一因かもしれない~、このタイプは数学オリンピック出場者の高校生並みの天才である。数学の問題に対応するにも、これと似た分類ができるようでもある。
 
 音楽のオタマジャクシ、いわゆる♪(音符)なるものは、小学校1年生で、五線譜の上で、これはド、これはミの音と学習する。3年生くらいから、譜面を見て、リコーダーである曲を吹けるようになる。それが面白と経験した者は、5年生くらいで吹奏楽部に入る。そこで、様々な音色や表現の仕方、また、集団での音合わせなるジャンルを知る。これぞ、知識の<点>から<線>、そして<線>から<面>への変貌成長過程と同じものである。
 
 こうした野球や音楽における、スキルの上昇、これと同類の鍛錬というものが、実は、数学においても求められることを和田秀樹は、“数学は暗記”だと唱えているに過ぎない。この説、親鸞の悪人正機説なみに、受験界では誤解を招きやすいアドヴァイスでもある。
 
 広辞苑の全ての語彙を暗記していても、文豪、いや、流行作家はもちろん、何らかの文学賞受賞者にすらなれない。これは、誰も言わないことだが、歩く辞書(物知り)として名高いカリスマ国語教師に、名作、いや、等かの文学賞を取るような小説が一つも書けない所以がここにある。また、漢字検定1級者が、優れた国語教師になれるわけではないのは、帰国子女やネイティブが、優れた英語教師になれるわけではない真理と同じものがある。それは、丁度、山川の日本史一問一答問題集を完璧に覚えても、東大の二次の日本史の記述問題は当然、早慶の日本史の問題を6~7割以上ゲットできない現実と同じものがある。この日本史の例だと大方の高校生は納得する。しかし、これとは、逆のベクトルが働いてもいる数学は暗記だとなると誤解されやすい文言ともなる。
 
 日本の学校状況下では、様々な教科において、知識の丸暗記に留まっていてはいけないことは、現場高校生は百も承知である、また、強く認識できてもいる。だから、それと同時並行的に、歴史教科に関していえば、山川の教科書も何度も何度も読み込んでいる。知識の<点>を、必死に<線>にしようと努力しているのである。実は、これとは、真逆の行為、問題の解答のプロセスの暗記、それを微積するのが数学の暗記であるのに対し、文系科目の語彙は用語の暗記、それを積分する行為が歴史や地理のストーリー化の本義でもある。本来、数学の問題を解くストーリーを集約し、微積、いわば、脳裏に戦術としての、<面>は無理にしろ、せめて<線>にまで拡大できる<点>としてインデックスにしまいこんでおくこと、それこそが、数学は暗記である、という、準秀才以下の理系科目への心得として認識しておくことだけのことはある。
 
 フォークでもカーブでも、野球選手は、何度も練習場で、その球筋とそれへの身体的対応力・適応力を身に付ける。選球眼と変化球への眼力、そして、とっさの反応力は鍛えられる。しかし、その次の段階、それをデータベース化して、臨機応変の力へ昇華する、それこそが、一流と二流打者の違いとなる。これは、卑近な例だが、合気道や柔道を道場で鍛錬した有段者の少女が、暗闇の中、痴漢や暴漢に襲われて、逃げ出すケースはそれに近いケースでもある。数学も本番となると、力が発揮できない高校生のメンタルは、そうした少女と似ていなくもない。
 
 数列やベクトルの問題を多数解いても、それが、自身の頭の中で体系化していなければ、模試や本場では、実力を発揮できない。学校の定期テストでは点数がいいが、模試ではからっきしダメな高校生、これは、英語などの科目でも当然いえることである。
 
 野球でも数学でも、場数を踏む、数をこなす、その果てに、センスが磨かれるか否か、それが、数学は暗記、野球は頭でするものといった名言の本義があるのである。
 
 サッカーの全日本を率いていた監督オシム(数学の教師資格もあったインテリの名将)の名言だが、「考えながら走れ」というものがある。ジーコが、日本のサッカー選手で最も評価していた中田英寿(文武両道、数学が得意で東大にも行けたほど学業成績も優秀だったそうだ)などは、「サッカーとは因数分解を解くのに似ている」とも述べている。恐らく、ボールのパス回しと選手の動きを天才的言説で吐いたものでもあろう。オシムの思想にしろ、中田の感性にしろ、アスリートならいたって当然のことばである。凡庸なるアスリーとは、考えることを二の次にして身体を使う。身体を使う前に、いや、頭を使いながら走るのが名選手でもある。頭と身体が連携して無意識に動く長嶋茂雄(ユニホームを着たターザン)のようなアスリートは皆無なのである。ここに、野村は気づき、頭でする野球、即ち、ID野球なるものを編み出した。これ、情報・データを基にした、勝率を高める戦略である。投手の球種と配球、それを熟知し、分析して試合に臨めば、あとは、自身の身体能力は2流でも、超2流、準1流にはなれるということを野村は生涯にわたり布教した名監督でもあった。この思想、「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」(孫子)を、日本のプロ野球界で、三原脩、川上哲治、そして栗山英樹にいたる名監督は、換骨奪胎して実践してきたのである。相手を徹手的に分析し、最後は、「敵は我に在り」と自身を戒めた人間通、それが野村克也の野球、いや、人生の理念でもあっただろうか。
 
これと同次元のことを、和田秀樹は、高校数学で述べているに過ぎないのである。彼のいう、暗記とは、枕詞、<考える>という言葉のついた“数学は<考えながらの>暗記である”これが真意といったところだろうか?この<考える>という行為、精神内での働きは、数学の問題を解く<思考力>(兵卒)とは、一次元違った<思考力>(士官)なのである。
 
 
 
 

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