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コラム
記憶の要諦は教えることにある
Apprendreというフランス語の動詞には、「学ぶ」と「教える」の二つの意味がある。この点、英語は、learn/studyとteachで分かれてしまう。
それを捩って、「学ぶことは、教えること。教えることは、学ぶこと」とも言えようか!
ものを覚えるということ、暗記するということ、記憶すること、これは、諸刃の剣でもある。人それぞれだが、嫌なことをいつまでも忘れられない人間はいる。良いことは一般的に忘れないものだが、必要なこと、大切なことが、なかなか覚えられ人間は多いものだ。未成年の少年少女における学校の勉強(定期試験)から受験の知識に至るまで、“覚えられりゃ世話ない!”と愚痴りたくもなる現実は、洋の東西を問わず、普遍的なものだ。社会人の様々な資格、司法試験から自動車免許の学科に至るまで、<記憶力という刀>の優劣がものを言うのは社会の資格を有する“~士”など、それで飯を食っている存在に思いを巡らせば納得もゆく。
人間は、好きなことは、苦も無く覚えてしまう。嫌なことは、なかなか頭に定着しない。逆に、嫌なことがなかなか頭を離れない、忘れられないケースもある。
まず個人的なことからお話しする。
英精塾の塾長でもある私は、オプションとして、英語以外にも、日本史、世界史、古典、小論文、現代文を教えてもいる。もともと、こうした、歴史や古典というジャンルは興味の対象でもあり、それ関連の書籍は、趣味や興味の対象として、日がな一日読んでもいる。まさに、仕事という感覚で認識していない領域かもしれない。自身、「ああ、そういうことか!なるほど、こうだったので!」と感慨深く知識のアップデートを、意識に、日々行ってもいる。もし、私が、一般サラリーマンであれば、そうした新たな知識や見方というものは、自身の無意識に、地層のように埋没してもゆき、使うとか実用的とかいう側面で、自身の脳裏の書斎の片隅に、埃をかぶって収納される運命であっただろうか?
しかしである。この個人塾において、幸いなるかな、毎年、日本史や世界史を数名教えている仕事柄、この趣味や興味で習得した歴史的知識を、おもしろ、おかしく、ためになるように教えたくなる性といった、教師気質ともいえるものが、無意識の層ではなく、いつでも取り出せる手の届く書棚ともいえる意識の層(ゾーン)に常に置いておこうという自覚、本能が私の内面にはある。これこそが、忘れない、記憶するというエンジンともなっているようで仕方がない。
この気質、実は、自身の趣味、好きな対象が、セミプロ並みに豊富な知識として定着していられる理由が、実は、我という人間が、もう一人の自己という人格に、心でか、脳内でか、教えている行為にあるようで仕方がないのである。自身が学んだことを他人に教えるという行為が、実は、記憶・知識の定着の近道ということが、私個人の実感でもある。「教えることは学ぶこと、学ぶことは教えること」とも言われるが、よく教え子に言うことだが、「君たちが、今日学んだ知識が、本当に学んだ、身についたといえるのは、弟なり、学校の後輩なりに、この英精塾の先生と同じことを、“自身がわかった”という感慨を相手にも与えながら、教えられて初めて、学んだといえるのだよ」「この早稲田の過去問の英文を一年後輩の40名の生徒を前に、この英精塾の先生と同じように授業ができる、この英文から派生する雑学や歴史的背景をプアスルファで教えられて初めて、この過去問を征服したといえるんだよ」このように、習得するという実体・正体、学ぶとは、わかるとはどいううことかを説明するのである。
人にはよくある経験でもあろうが、テレビやラジオ、新聞・雑誌で目にした、聞いた、読んだ自身に面白いと思ったことを、友人知人に話したくなった内発的欲求というものが誰にでもあるかと存ずる。実は、ここにこそ、記憶の定着の正体というものの尻尾が垣間見えるのである。ここにこそ、学ぶ最大の近道は、楽しむことであるという真実と根底でつながってもいる。この面白い・楽しいという実感は、人間がもう一人の人格でもある自身に、そのはまっていること、楽しいことを、内面で説明してあげている脳内現象が起きていることでもある。昭和の映画評論家の大家、淀川長治、水野晴郎、荻昌弘などは、これを映画で実践していたに過ぎない。現代のカリスマ予備校講師、英語の関正生や日本史の伊藤賀一なども同様である。私は、歴史のこと、古典のことにも、興味関心がある。いわば、古、過去、歴史という人間の来し方には、非常に興味がそそられはするが、行く末という未来というものには、世のデジタル人間の言説を、参考程度に、読み・聞く程度であり、積極的に思索しようとは、ならない。だから、私の役割、令和の高校生に、英語から古典や歴史を教えることは、教授することと学ぶという行為の混然一体ともなった天職とも言えるのである。世の、著名なる、優秀なる予備校講師は、ある意味、趣味と仕事が一致しているという点が、世間の凡庸なる勤め人的教師と大きく違うところでもあろうか。優秀な塾・予備校講師のメルクマールは、強烈な興味、そこから派生する感動、それをリアルに教え子に伝えたいという欲救の度合いにある。しかも、それを下支えしているのが<記憶>というものである。
私が畏怖する英文学系の学者、福田恆存、江藤淳、渡部昇一、外山滋比古、柄谷行人などは、英文学・英語学からスタートし、思想家・言論人・批評家として大成した方々でもある。ああ、そうした走りは、あの夏目漱石でもあっただろうか?彼らは、英文学からスタートし、その周辺のジャンル(学問分野)を豊饒なものにした大家である。
僭越ながら、横浜の場末の小さな塾で、英語を中心として、高校生に、歴史や古典というものを、暗記力での定着ではなく、記憶力の優劣にも関係なく、彼らが一生忘れない、歴史・古典として、萌芽の種を蒔くように、その知識が定着するように、大学で芽が出るように(大学でも更に進んで学んでゆけるように)、私が面白い、なるほどと実感した経験をベースに彼らに接してもいる。
それを捩って、「学ぶことは、教えること。教えることは、学ぶこと」とも言えようか!
ものを覚えるということ、暗記するということ、記憶すること、これは、諸刃の剣でもある。人それぞれだが、嫌なことをいつまでも忘れられない人間はいる。良いことは一般的に忘れないものだが、必要なこと、大切なことが、なかなか覚えられ人間は多いものだ。未成年の少年少女における学校の勉強(定期試験)から受験の知識に至るまで、“覚えられりゃ世話ない!”と愚痴りたくもなる現実は、洋の東西を問わず、普遍的なものだ。社会人の様々な資格、司法試験から自動車免許の学科に至るまで、<記憶力という刀>の優劣がものを言うのは社会の資格を有する“~士”など、それで飯を食っている存在に思いを巡らせば納得もゆく。
人間は、好きなことは、苦も無く覚えてしまう。嫌なことは、なかなか頭に定着しない。逆に、嫌なことがなかなか頭を離れない、忘れられないケースもある。
まず個人的なことからお話しする。
英精塾の塾長でもある私は、オプションとして、英語以外にも、日本史、世界史、古典、小論文、現代文を教えてもいる。もともと、こうした、歴史や古典というジャンルは興味の対象でもあり、それ関連の書籍は、趣味や興味の対象として、日がな一日読んでもいる。まさに、仕事という感覚で認識していない領域かもしれない。自身、「ああ、そういうことか!なるほど、こうだったので!」と感慨深く知識のアップデートを、意識に、日々行ってもいる。もし、私が、一般サラリーマンであれば、そうした新たな知識や見方というものは、自身の無意識に、地層のように埋没してもゆき、使うとか実用的とかいう側面で、自身の脳裏の書斎の片隅に、埃をかぶって収納される運命であっただろうか?
しかしである。この個人塾において、幸いなるかな、毎年、日本史や世界史を数名教えている仕事柄、この趣味や興味で習得した歴史的知識を、おもしろ、おかしく、ためになるように教えたくなる性といった、教師気質ともいえるものが、無意識の層ではなく、いつでも取り出せる手の届く書棚ともいえる意識の層(ゾーン)に常に置いておこうという自覚、本能が私の内面にはある。これこそが、忘れない、記憶するというエンジンともなっているようで仕方がない。
この気質、実は、自身の趣味、好きな対象が、セミプロ並みに豊富な知識として定着していられる理由が、実は、我という人間が、もう一人の自己という人格に、心でか、脳内でか、教えている行為にあるようで仕方がないのである。自身が学んだことを他人に教えるという行為が、実は、記憶・知識の定着の近道ということが、私個人の実感でもある。「教えることは学ぶこと、学ぶことは教えること」とも言われるが、よく教え子に言うことだが、「君たちが、今日学んだ知識が、本当に学んだ、身についたといえるのは、弟なり、学校の後輩なりに、この英精塾の先生と同じことを、“自身がわかった”という感慨を相手にも与えながら、教えられて初めて、学んだといえるのだよ」「この早稲田の過去問の英文を一年後輩の40名の生徒を前に、この英精塾の先生と同じように授業ができる、この英文から派生する雑学や歴史的背景をプアスルファで教えられて初めて、この過去問を征服したといえるんだよ」このように、習得するという実体・正体、学ぶとは、わかるとはどいううことかを説明するのである。
人にはよくある経験でもあろうが、テレビやラジオ、新聞・雑誌で目にした、聞いた、読んだ自身に面白いと思ったことを、友人知人に話したくなった内発的欲求というものが誰にでもあるかと存ずる。実は、ここにこそ、記憶の定着の正体というものの尻尾が垣間見えるのである。ここにこそ、学ぶ最大の近道は、楽しむことであるという真実と根底でつながってもいる。この面白い・楽しいという実感は、人間がもう一人の人格でもある自身に、そのはまっていること、楽しいことを、内面で説明してあげている脳内現象が起きていることでもある。昭和の映画評論家の大家、淀川長治、水野晴郎、荻昌弘などは、これを映画で実践していたに過ぎない。現代のカリスマ予備校講師、英語の関正生や日本史の伊藤賀一なども同様である。私は、歴史のこと、古典のことにも、興味関心がある。いわば、古、過去、歴史という人間の来し方には、非常に興味がそそられはするが、行く末という未来というものには、世のデジタル人間の言説を、参考程度に、読み・聞く程度であり、積極的に思索しようとは、ならない。だから、私の役割、令和の高校生に、英語から古典や歴史を教えることは、教授することと学ぶという行為の混然一体ともなった天職とも言えるのである。世の、著名なる、優秀なる予備校講師は、ある意味、趣味と仕事が一致しているという点が、世間の凡庸なる勤め人的教師と大きく違うところでもあろうか。優秀な塾・予備校講師のメルクマールは、強烈な興味、そこから派生する感動、それをリアルに教え子に伝えたいという欲救の度合いにある。しかも、それを下支えしているのが<記憶>というものである。
私が畏怖する英文学系の学者、福田恆存、江藤淳、渡部昇一、外山滋比古、柄谷行人などは、英文学・英語学からスタートし、思想家・言論人・批評家として大成した方々でもある。ああ、そうした走りは、あの夏目漱石でもあっただろうか?彼らは、英文学からスタートし、その周辺のジャンル(学問分野)を豊饒なものにした大家である。
僭越ながら、横浜の場末の小さな塾で、英語を中心として、高校生に、歴史や古典というものを、暗記力での定着ではなく、記憶力の優劣にも関係なく、彼らが一生忘れない、歴史・古典として、萌芽の種を蒔くように、その知識が定着するように、大学で芽が出るように(大学でも更に進んで学んでゆけるように)、私が面白い、なるほどと実感した経験をベースに彼らに接してもいる。
2024年2月26日 17:18