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株価の上昇は英検人気と同じもの

 日経平均株価が40000円を超えた。物価も上がる傾向にある。しかし、大手企業を除き賃金は、上がらない。持てる者が、恩恵に浴し、選ばれし者が、豊かとなる。アメリカ型の格差社会の、日本への波及拡大でもある。あの、アベノミクス効果など、当初予想された“富のトリクルダウン”なぞ、所詮、絵に描いた餅に過ぎない、起きなかったのは、小泉構造改革で、失われた30年の現在を、失われた10年で食いとどまらせることができなかったのと同じである。安倍晋三も小泉純一郎も私は責めているわけではない、それほど、経済のかじ取りというものが難しいことは、現在の超エリート日銀総裁植田和男の姿勢に目をやれば一目瞭然でもあろう。
 
 さて、この株価がバブル期を凌ぎ40000円台になっても、一部エコノミストなどから「株価は高いが、経済が弱い」と揶揄されることは新聞等に指摘される通りである。この指摘の言葉を聞いた時、「英検X級を持ってはいるが、英語ができない」という奇妙な言葉、知る人ぞしる珍現象が、英語教師いや、英語講師の立場から思い浮かんだ次第である。
 
 小学生で3級、中学生で2級、そして高校生で準1級を合格した教え子の性格や学力を熟知してもいるが、果たして、彼ら、彼女らが、その級に見合う、その級のタイトルホルダーに見合った英語の使い手{※少々オーバーか?}・実力かと言えば、はなはだ疑わしい限りである。「いや、うちの教え子はそんなんじゃない!」と豪語する教師なり、塾講師がいたとすれば、それは、たまたま自身の視野に入る教え子が、その級とその実力がダブっている生徒に過ぎない。実体は、大方、少なく見積もっても半数以上は、そうではないことは、慧眼ある英語教師ならば、とうの昔に気づいてもいるはずだ。そのリトマス試験は、その級で出される英文と同等の英文が書けるかという命題であり、その級のレベルの問題を記述形式にしてやらせたら、お手上げという実体に、瞑している英語指導者がいかに多いかということでもある。この英検の実体と、現在の株価が、日本人の中高生の英語力、日本の経済力とが相似関係に見えてしまうのである。
 
 弊塾以外のホームページを眺めてほしい。ほとんどといっていいくらい、「四技能を伸ばす」だの、時には、「六技能を伸ばす!だの、また、「使える英語を身に付ける!」とか「世界に通用する英語を教える!」だの、英語スキルのよろず屋ならぬ、英語技能のコンビニ店まがいのコピーがわんさか目に付く。<英語実用教>の、新興宗教まがいの塾がいかに多いかである。特に、小学校から高校まで、英検対策を主眼とした、英検合格者の数を売りにする塾まである。それはそれで、致し方ない、何故か?現今は、一般入試ではなく、学校推薦や総合選抜{※昔のAO入試である:これ、ほでもK入試だの、AO田買い入試だの馬鹿にされたが故の名称変更か?(笑))が主流ともなっている受験システムでは、高校生なら、できるなら準1級を、中学生なら、2級を取得していた方が、何かと、あの2月の受験地獄を回避できる、安楽な道が待ち構えてもいるからだ。恐らく、そうしたメンタルでは、大学から、大学後の英語の伸びしろが大いに違ってもくるのは、慶應の附属の高校生からと大学受験で、慶應の経済や法学に進んだ学生の英語力の差に各段の違いがでるのと同じ現象が生まれる真実と同じものがある英検タイトルゲット猛者は、英語の実力を伸ばすことより、その試験に合格することが、勉学意識のモチベーションを支えてもいる。ちょうど、自動車免許の学科合格のお勉強と英検合格のそれとは、同類同質のものと言ってもいい。その資格をゲットすれば、即、それ以後の精進は忘れる。むしろ、衰退する摂理は、男子大学生が、大学入学後、だんだんと英語ができなくなってゆく有名な日本人大学生気質とダブっても見えてくる。
 
 安倍政権下、アベノミクスで、黒田(東彦)バズーカ(ゼロ~マイナス金利政策で、国が株を購入し、金融じゃぶじゃぶ現象を招来)で、景気改善を狙い、特に、株価上昇を喜んでいた安倍晋三の自慢げな姿が、我が子が小学生で英検3級、中学生で英検2級と兄弟で合格したことを自慢げに、ママ友に自慢し、事実、我が子たちが小学生で中三レベルの英語が話せて聞けて、中学生で高三レベルの英語が書けて読めるなど勘違いして笑顔満面に、“しゃべりまくりジュニア”の我が子をほめそやすバカ親の姿にかぶって見えてしまうのである。
 
 一昔前の小泉・竹中の構造改革にしてもそうである。郵政民営化に代表される小泉政権下では、確かに、一部は、経済は上向きはしたが、派遣社員や非雇用の社員の多量輩出で、その犠牲の上に、大手企業のみが、V字回復した感が否めない。この見かけ上の“経済の成功”も、英検合格とは、言いながらも、3級ホルダーと2級ホルダーのそれぞれの中高生に、そのレベルの英文を訳させたり、作文させたりすれば、それ相応の実力ではないことが世の6~7割は該当している“表面上表れない真実”同様に、砂上の楼閣であることは、分かる人は分かるはずなのである。
 
 昭和の時代、英語検定協会など、“日陰者”の存在でもあった。そのビジネス戦略と、センタ―試験の変質、そして、大学当局の英検利用、そして、推薦システムの拡大、こうした複合的要因が、英検なる存在をメジャーに、日の当たる場所へと浮上させた。
 
 これは、大学当局の自校問題作成能力の欠如や労力回避など、現場高校が、授業効果への自信喪失により生徒に自助努力で高卒程度の見たくれ資格を強いることで、現場教師の教授責任の回避、高大接続という、英語という関門に関して、これほど、英語検定協会におんぶにだっこ手法は、飛びつかぬ手はない、よって、高等教育も中等教育も、英語検定という、マークシート主流の資格試験が、文科省も背後にあり、巨大な試験集客マシーンと化したのが実体でもある。
 
 英語検定対策と称する塾は、私からすれば、手抜き塾と同義に見えてもしまう。最近フランチャイズで激増してもいる、通称、教えない塾“武田塾”と同質の気風が、こうした英検対策の勉強法の手法であろう。いっぱい過去問を解いたり、マークシートの選択肢の絞り方のコツを教えたりで、英文法の本質など身につきはしない。
 
 例えば、仮定法の単元など、武田塾の手法、つまり、独学で参考書や問題集をやり終える形式の手法で、早稲田や慶應の過去問の中に出てくる何気ない“仮定法”など判別する実力などつきはしないと断言できる。また、国公立2次試験における英作文で、仮定法を能動的に用いた、濃い内容にして、格調ある文など絶対に書けたりしないのである。この教えと学びの真実は、スタサプや東進の映像授業、名物英語講師のYouTube授業などでも言えることである。また、20名以上の、個々に目が行き届かない予備校の授業でも、限界がある。だから、弊塾英精塾の理念の一つでもある、禅から拝借した、“面授面受”をモットーに少人数、10名以下の授業を売りに、少数精鋭少数精鈍も、道場の如く英語を鍛錬している。これは、デジタルやマスという大人数授業では、不可能である。できるとすれは、凡才をMARCHレベルにまで底上げすることは、可能でもあろうが、早慶以上東大京大位にまで上昇するには、凡才ではなく、そう見えても、凡才ではなく、本来準秀才であったものが、自己の資質や気質の恩恵で合格したに過ぎない。ビリギャルなどは、本人は否定もしているが、その部類に入るであろう。彼女は、坪田先生と“面授面受”で伸びた。オンラインやデジタル器機、独学では、そうならなかったはずである。
 
 英検対策勉強とは、二次はある程度は必要ではあるが、記述は一次では不要でもある。よって、デジタル勉強、自己勉強で、引っ掛かからないように、“習うより慣れろ方式”で、大枚はたいて数回受験すれば、大方、合格する、“下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる流”に合格したタイトルホルダーが世に、学校に、わんさかといる。この英検という資格、“裸の王様の透明な衣装”と同様である。見えているのは、親御さん、学校の教師、大学の受験担当係の事務員くらいで、いわゆる、“理性に瞑してヨイショ資質の人間”それ以外の教育関係者は、英検のタイトルなど、見えない、透明な資格でもある。余談だが、海外では、この資格は一切通用しないが、江戸時代の藩札のように、この島国では、権威の威光が衰えない。江戸時代、数万石の殿様でも、数十万石の殿様でも、民にとっては主君は主君であって、お偉いのであったのと同様に、中学生にとって2級は、高校にとって準1級は、権威でもあり、高校へ、大学へのフリーパスともなっていることが昭和にくらべ、むしろ令和の方が、読み書きという次元では、劣ってもいるというのが、現に高校生・中学生に接している、横浜の場末の英語講師の感想でもある。
 
 世の親御さんに告ぐ。我が子が“~級”の英検に合格したなどという事態が招来しても、それは、令和の日本経済が株価が40000円台になったから、日本経済が回復した、強くなったと妄信するに等しい判断であるとだけは申し上げておく。

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