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苦手科目は、食の偏向に類比する

 前回、私の少年期の食の好き・嫌いについて、軽く語ってみましたが、実は、この食習慣における食べものの片寄り、好み、苦手、そういったものは、勉強においても比類しているのではないか、それも、量と質の観点から述べてみようかと思います。

 小学生で、算数が苦手、計算が下手、国語が嫌い、読解がダメ、そういった原因も、実は、公立小学校における40学級の、マス教育の弱点・欠点、それがもとで生まれるケースが多い、いや、大方そうでしょう。また、親は親で、親が見つけてきた問題集なり参考書なり、また、学習塾なりを、我が子に、近視眼的、盲目的に与えて、後は、できるようになるだろうと楽観視、そして、その関係性に目を向けない。学校でわけがわからない箇所なのに、まるで、市販の総合感冒薬を与えて、後は寝ていなさい的な態度では、インフルにしろコロナにしろ、完治するわけがないのです。ここに、親が、その科目の量というものを、闇雲に課す死角というものがあるです。

 私の肉嫌い、魚嫌いは、祖母が、場末のパパママストアーの、安い肉や刺身で、住み込み職人の賄い食を作っていた、その晩御飯を食べていた、そこに、ある意味、原因があったと自身では回想できるわけです。質の悪いものから、その対象が嫌いになるという典型的なケースです。噛んでも噛み切れない安い牛肉豚肉、同様に、口のなかに筋がのこる安いマグロの刺身など、小学校低学年の私は、こうした、量の食の弱点を背負い、肉や魚が嫌いになっていった。それを、高学年で、父に高級寿司や松坂牛を体験させられ、生魚の、牛肉の、そうした旨みに気づいた、そして、質が劣っても、その後、標準クラスの食材でも、そこにその美味しさを見つけようと、前向きに食せるようになったのです。

 勿論、人に拠りけりですが、勉強にしろ、食にしろ、スポーツにしろ、一流のフックとなる教師なり、料理(人)なり、指導者なりに巡り逢わなければ、つまり、“フック”なる存在に邂逅しなければ、その対象は、嫌い、苦手のものとなり、永遠に、疎遠のものとなるのである。ここでは、詳しくは、語りませんが、算数と数学はその典型でもありましょう。この点で弊著『反デジタル考』で詳しく論を展開しています。

 国語という科目の得意不得意、これは、読解力の有無に比例しているというのが相場です。
 幼児期に母親が、絵本をどれだけ読み聞かせしたか、また、幼稚園から小学校低学年で、ひらがな、カタカナ、そして常用漢字の習得と比例して、どれだけその期間に本を読んだか、それが、中学入試の国語の成績に連結してもくる。これも、幼児期から、言葉という、様々な食材を、上手に料理して、我が子に与えたか否かの差でもある。この点、あの佐藤ママこと、佐藤亮子は、ものの見事に、我が子4人を、受験のホップの段階で大成功させた見本のような存在でありましょう。この国語の大切さも『反デジタル考』の中で、詳らかに語ってもいます。
 だいたい、食の片寄り、食の好き・嫌い、こうした嗜好は、半分以上、先天的な要素より、環境によるものが大きいといえます。ここに、ご父兄がよく語る、先生の当たりはずれの言葉がまんざら信憑性を有する淵源でもある。

 これは、浪人時代に、駿台予備校の数学の授業で悟ったのでもあるが、良問とは、たった一題の中に、その微分なり、三角関数なりの、その核、要諦、本質が内包さえているものだという真実である。これは、英語など他教科の問題にも大方あてはまる真実である。
 10題、標準的なその微分の問題を解くより、この、一見難しい問題にこそ、その単元の本質が潜んでもいる。その本質を、基礎(fundamental)ともいい、この言葉、実は、易しい(baisic/easy)と勘違いされてもいるのだが、呼び名を、むしろ、基盤とか、根本、いや、根盤と呼んだ方がいいものである。ここにこそ、東大生が口にする<基礎>と、一般私大生が口にする<基礎>という概念の齟齬が浮かび上がってもくる。実は、少々飛躍もあるが、この東大生が口にする<基礎>とは、食でいう一流の大間のマグロであり、松坂牛である。一方、一般私大生が思っている<基礎>とは、計算力やその単元の“序の口”レベルの市井のスーパーの安いこま切れの牛肉であり、輸入ものの、安価な冷凍マグロでもある。

 小学校低学年までは、学校より、むしろ、親が、その食にしろ、学にしろ、責任が大なのである。その後、小学校4年から6年までは、一般的に、進学塾、学習塾、その講師が、その国数理社の科目の責任を負うことになる。どれだけ、質の授業を提供できるか、したとしても、その教科が全く成長しないのは、それ以前の、親のほどこす環境の良し悪しが命運をわけもする。ここに、幼児教育の、ある面の大切さが浮かび上がってもくる。
 教育経済学者の中室牧子氏は、教育の費用対効果は、幼児期、小学校、中学校、高校と上がるに従って、効果が薄くなるという説は、言葉というものへの幼児期からの接し方と類比しもいよう。全ての科目(英数国理社)の根幹(funndamenntal)にあるのは、国語であると唱道している藤原正彦氏のそれが証拠でもある。

 言葉がテーゼ、数字がアンチテーゼ、そしてその止抑(アウフヘーベン)としてのジンテーゼ、即ち、算数が確立する。言葉と読書、そのジンテーゼとして、社会という科目が育つ。算数と読書、その止揚の結果として理科という科目が建つのである。「やまと歌は、人の心を種としてよろずのことの葉とぞなりける」という古今和歌集の序を捩って、「すべての教科は、国語を子どもの心の種として、よろずの教科の葉とぞなりける」でもある。この成長の摂理というものこそ、私が言いたい基礎なのだ、それを英語でいう、fanndamentalと定義したい所以でもある。       
 ここに、量で押す、数をこなす段階の基礎、即ち、basicと、質を追求する段階の基礎、いわば、funndamentalとの違いがある。では、次回は、この<基礎>というものの定義をもう少し深掘りして語ってみたい。(つづく)
 


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