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努力の哲学~序章~

「SEDsは“大衆のアヘン”である」(斎藤幸平)『人新生の「資本論」』
 
「努力とは、“中高生のアヘン”である」(露木康仁)
 
 「馬鹿と鋏は使いよう」これを捩って「努力という言葉も使いよう」と言わせていただきます。
 
 ここ数回にわたって、基礎という概念を、英単語のfundamentalとbasicになぞらえて語ってきたのも、自由にしろ、英単語では、libertyと freedomでその意味合いが違ってもくるという文脈で、その根底の意味合いが違ってもくる、その表層的な意味合いに甘んじて理解している盲点とやらは、民主主義といっても、世界中様々な政治形態の民主主義があるというのと同次元のことであり、ただ「基礎が大切だ!」「まずは、基礎からだ!」と唱道すれば事足りる指導者、また当事者のメンタルを戒めたい意味でもありました。
 
 では、今回から、努力という言葉、努力という意味合い、そうしたものについて語ってみたいと思います。
 努力にも、様々な色合い、違いがあるという点であります。まず、努力は、英単語では、名詞に該当するものとして、effortが挙げられましょう。動詞とセットでは、副詞hardが用いられるのが一般的でもありましょう。ここが、自由というliberty と違い、日本人は、教訓的言葉として色紙などに書く<努力>とは根底的に違うように思われます。野球とbaseballくらいに意味のコノテーションが違ってもきます。色紙に、Liberty は似合っても Effortは場違いということです。
 
 そこで、日本人が、よく用いる<努力>なる言葉、それには、その結果として様々な色合いのものとして出現する現象があるということであります。
 
 チューリップの球根、素人目には、その球根が、将来、赤になる、黄色になる、白になるなど分かりません。それと同じように、<努力>という球根は、将来の姿にも比喩もできるわけです。当然、その花の形態や色艶など、栽培(教育・学習)した後にしか、その将来像は分からないのと同じであります。同じ気候、同じ土壌、同じ環境で育った球根でも、当りハズレがあるように、その<努力>という球根は、花市場で、評価がまちまちともなる。
 まず、このチューリップの球根イコール努力の卵とします。
 また、この努力、小学生、中学生、高校生、そして大学生でもその内実が違ってきます。このように、努力といっても、その言葉は、ただ、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経といった念仏や題目とは違い、その行為がものをいう領域のことばであり、むしろ、禅宗の座禅、いや、日ごろのさりげない行為に近いものであります。真の努力をしている最中では、自己の行為を努力とは自覚されない、自覚された時点で、それは努力とは言えない類のものです。だから、禅的でもあるのです。
 
 『努力論』(岩波文庫)という幸田露伴の名著から、斎藤兆治氏による『努力論』(ちくま新書)まで、努力とはどういうものかを論じた本が、あまたありますが、その内容は、天才や偉人らを例にとって語ってもいるものです。凡人には踏破、踏襲できない、“努力山”という高き嶺であります。この点、努力も才能の一部という結論に帰着する月並み論で、大方の凡人には、少々応用が効かない。偉人伝や伝記を読む程度のメンタルにとどまります。一方、脳科学者の中野信子による『努力したら負け』~努力不要論~(フォレスト出版)なるものも出ている。これは、彼女自身の天才の尺度から、また、近年、運の角度から、この努力を語っているに過ぎず、継続という習慣、集中という鍛錬、こうした資質、気質にリンクする素質を有しない人には、余り、参考にはなりません。こうした書名もまた、“大衆のアヘン”でありましょうや?
 
 こうした努力論なるものは、世の成功者、大成者、勝者などが、結果論、それも、天賦の才、また、運といったものを排除して、その継続的、ひたむきさ、そちらにのみ光を当てて自身の実績を語ってもいる類のものです。
 これは、常日ごろ生徒に語っている言葉です。
 
 「努力という言葉は、勝者にのみ吐ける、その人自身の人格をも高める<勲章としての言葉>である。自身の才能、能力を二番に置く、謙遜の言葉なのである。」
 この言葉、フランスの箴言家ラ・ロシュフコーの名言「謙遜とは、二度褒められることである」これと、その心根は同じであります。
 
 一般的努力論とは、大学生、社会人、経営者、そして、様々なアスリート、こうした、いっぱしの大人に関しての概念であります。今回、この場で、語る努力とは、努力論ではありません。努力というものを冷ややかに、様々なアングルから概観、俯瞰するものです。ですから、努力の哲学とした次第であります。近年、運というものを特集した雑誌や書籍が多数目に付きます。このコラムでは、特に、高校受験から大学受験にかけて、特に、思春期における努力論、いや、努力の哲学を語るという次元にとどまりたいと思うのであります。
 イチローや大谷翔平から、“努力とは?”を学ぶ高校球児、松下幸之助や稲盛和夫から努力の正体に瞠目する経営者、佐藤ママ(佐藤亮子)から我が子への親としての努力に気づかされる母親、彼らは、そのジャンルのノウハウを、そして、目標・目的への実践・実行を覚醒させる、そうしたものへの自覚・覚悟といったものを、大まかに努力とも命名できようかと存じます。しかし、一般の、特に、大学受験における高校生の努力とは、これほど崇高なものではありません。もっと泥臭く、現実的であり、結果第一主義に執着したものです。こうした、世の大人の努力とは、一線を画して、未成年、それも思春期の少年少女の次元でいう努力というものをこれから語ってみたいと思います。(つづく)

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