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努力という言葉は、鍛錬の万華鏡

 努力に関する、格言、教訓、名言といったもののケース・スタディーに話しを移すとしましょう。
 「努力は裏切らない」というものをよく耳にします。著名なアスリート、特に成功した部類に入るスポーツ選手からのものです。元フィギュアスケーターの村上佳菜子さんは、あるバラエティー番組で、「私なんか、どれだけ努力に裏切られたか」と、笑いを交えながら語っていた姿が印象に残っています。恐らく、彼女は、自身の練習量というものを意識して、同期の浅田真央や鈴木明子などを脳裏に浮かべての発言だったと思います。当然、指導法、指導者、そして、天性の素質といったもの、更には、運というものを、一瞬忘れての発言でもあっただろうとも考えられます。感情のおもむくままに、素直に、その場に合わせて出た言葉でもありましょう。
 
 恐らく、世の中の、サラリーマンから高校生にいたるまで、「努力は裏切らない」というフレーズには、異議申し立てをしたい人が、大成を占めるのではないかと存じます。オリンピックを例に出すまでもまく、金銀銅以外の選手は、「努力に裏切られた」と自身の運命を捉えるのも無理はありません。そこからして、「間違った向きと足りない量のベクトルの努力を、努力と勘違いし、運のせいだ」と口にする、凡庸な人間は、そう実感をいだくのも無理はありません。大学受験などは特にそうとも言えましょう。
 
 そこで、教育産業擁護の立場から、抜け目がない、巧緻なる、シビアで、現実な指摘を、タレント兼予備校講林修氏は、次のような弁を吐いてもいます。
 
 「努力とは、正しい場所で、正しい方向に、適切な量がなされた場合、裏切らない」
 
 これは、努力というものを後付け説明する、現代文講師としての、ずる賢い方便ともとれます。
この努力に枕詞を付すと、努力で実を結ばなかった者に対して、口実・理由が、いくらでもつくからです。そもそも、この努力から成功(合格)への道のりやルート、そして環境といったものを知らずに、目的地に猛進する、その結果、その目的に至らず、挫折、もしくは、第二、第三の、余り満足もいかない終着点にしか至らないという現実がある、その言い訳としての発言でもありましょう。精神論で打開する太平洋戦争の日本にかぶっても見えてきます。
 
 本来、努力するにも、どこで努力すべきか?どういう手法で努力すべきか?そして、どれくらい量を努力すべきか?このwhereと how とhow muchとが、家庭、学校、塾・予備校に身を置く‘思春期の迷える子羊の少年少女’にはわからないのです。その、ブラックボックス的、勝利の配分とやらを運と言われもします、環境とも言えましょう、こうした<正しき状況>に置かれない確率の方が高いわけです。この<正しい状況>で努力すれば、希求する結果がもたらされもするわけです。じつは、この過程というものが、<藪の中>なのです。“分かれば世話ないよ!”と愚痴りたくもなるのが失敗者の本音です。
 
 ここででありますが、あのカリスマ現代文講師林修氏でさえも、日東駒専レベルまた、MARCHレベルで現代文に伸び悩む高校生に、東大レベルの現代文読解のノウハウが当てはまらない実例が、まさに、その例です。また、できの悪い小学生が、サピックに通っても開成麻布には手が届かず、英数国が中途半端な高校生が駿台予備校に通っても東大京大など夢のまた夢に終わってしまう現実と、類似・相関関係にあることは、分別のある親御さん、また、ものごとを弁えている高校生の当事者も当然認識している現実でもありましょう。
 そこで、浮上してもくるのが、数年前、早稲田アカデミーから慶應女子部に進学したタレントの芦田愛菜から吐かれて有名にもなった、努力の権化、世界のホームラン王、王貞治の言葉です。因に、この王貞治は打撃コーチ荒川博がいなければ、あの王貞治はいなかったことでしょう、ちょうど、坪田先生がいなかった、ビリギャルのようなものです。
 
 「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるならば、それは努力とは呼べない。努力しれも報われなかった、それは努力をしていなかったからではなく、努力とは呼べない域だった」
 
 この王貞治の言葉は、将棋界の7冠達成者羽生善治のものだと記憶していますが、次のように連想してしまいます。
 
 「努力とは、努力を努力とは思わないほど努力する才能だ」
 「天才とは、蝶を追いかけながら、いつの間にか頂上に登ってしまっている人である」{※これは、長嶋茂雄のケースでありましょう
 
 こうした、王や羽生といった、その世界(野球と将棋)を制覇した偉人の言葉を凡人の私なんぞは、<私流の格言>というものを挙げてみたいと思います。
 
 「努力とは、勝者のみに与えられた“謙遜の勲章”のようなものである」
 
 以前にも言及した、ラ・ロシュフコーの「謙遜とは二度褒められることだ」にも帰着するかもしれません。持って生まれた素質・才能に勝利の原因を帰着させると、何のギフトも有しない大衆が過半数以上を占める、一般市民平等社会の現代では、鼻持ちならない、よって、偉人でさえも、“勝利の夢を!”と、“成功を凡人にも!”という、一種、リプサービス的社交辞令として、「努力は裏切らない」という言説が、上(持つ者)から下(持たざる者)へ、宗教のように、お題目の如きに、流布してきたとも考えられます。
 
 結局は、努力とは、毒舌家でもあった落語家立川談志の次ぎの言葉に集約されるやもしれません。
 
 「努力とは、馬鹿に(あた)えた夢である」
 
 ここで、お断りをしておくと、この努力とは、落語を目指す、野球選手を目指す、有名大学を目指す、その熱き工程を意味するもの、そうした狭義の努力であるならば、当然、真実味を増しましょう。しかし、人生という過程を下敷きに考えた努力となると、野村克也氏の次語の言葉が、真実味を増してもこようか存じます。
 
 「努力に即効性はなしと心得よ。でも、努力は裏切らない」
 
 この言葉の真意とは、こうでもありましょう。
 
 現役選手として、努力したけれど大成しなかった、しかし、その後、コーチとして、また、監督として成功した、こうした事例にも該当するのではないでしょうか。栗山英樹WBC監督などがいい例です。
 
 私の意見です。王貞治は、野球選手として、野村克也に勝った、しかし、野村克也は、王貞治に、指導者、監督として勝ったともいえる事例がまさにこれです。
 
 また、ノーベル化学賞受賞の田中耕一氏は、東北大学工学部からソニーへの就職が叶わず、島津製作所へ進みます。ここでも、自身の専門の物理系の部署ではなく、畑違いの化学系の実験部署へと配属となります。二度目の不本意な現実です。しかし、その化学系の部署で、再度、化学を学び直し、再研鑽を積み、あのノーベル化学賞を得るまでになったのです。
 
 こうした事例なんぞも、第二、第三志望の大学にしか進めず、しかし、そこから、奮起し、次の人生第二ステージへと努力する気概、それこそが、凡人向けの、真の努力の正体ではないでしょうか。
 このコラムの<経験と体験>の違いについて述べた回をお読みいただくとご理解いただけると思いますが、努力したが失敗した、これを自身の体験とするか経験とするか、その心的自覚が、人生の次ぎのフェーズを決めると言ってもいいかと存じます。
 先日、超技巧派のギタリストでロックシンガーMIYABIが『おしゃれクリップ』(日本テレビ)という対談番組で「自分は、失敗はしても負けない!」ということを語っていました。彼は、少年時代にプロのサッカー選手を目指します、しかし、それが叶いませんでした。これは、受験で失敗しても、人生では負けない、こうした生きる摂理の適用事例でありましょう。以前、このコラムで語った<主観と客観>の中で指摘したことの類例でもありましょう。失敗は主観、負けは客観、努力が実らずとも、自己研鑽を怠らない、主観の世界です。勝った負けたかは、他人の評価です、これ客観です。努力とは、実は、こうした次元にもあるということです。
 
 
 経験というフィルターと通した努力というものは、成功であれ、失敗であれ、人生の達人・偉人の口にする努力と同義でもある、いや同義にもなるということです。それは、努力の次元を超えてもいようかと思います。それは、むしろ、精進といったものです。恐らく、世の大成者は、凡人には努力とは映りながら、神様・仏様の目には、精進と見える行為・行動をしてきた人だと思います。その典型的な、模範例、それが、メジャーリーガーの手本・鏡ともされている、令和の超スーパースター大谷翔平でもあります。次回は、この努力と精進の違いについて語ってみたいと思います。(つづく)

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