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努力と精進の違い

「謹んでお受けいたします。大関の名に恥じぬよう、一生懸命頑張ります」(朝青龍)

「謹んでお受けいたします。大関の地位を汚さぬよう、全身全霊をかけて努力します」(白鵬)

「謹んでお受けいたします。大関の名を汚さぬよう、精進します」(稀勢の里)

「謹んでお受けいたします。大関の地位を汚さぬよう、万里一空の境地を求めて日々努力精進します」(琴奨菊)



 大相撲の世界で、大関に昇進する際、その伝達式で、その新大関が口上する文言が、よくニュースなどで取りあげられます。その言葉の末尾で、半分以上、いや、三分の二くらいでしょうか、締めのフレーズで「……精進します」と耳にする場面が多いかと思います。因に、やんちゃ横綱・わんぱく横綱とも言われた朝青龍や問題児横綱とも揶揄された白鵬などは、“頑張る、努力する”、このフレーズで終わります。その後の彼らの横綱像や引退後の姿を皮肉にも運命づけてもいようかと思います。しかし、歴代の大関や横綱などは、その立派な決め台詞は吐いても、それはあくまでも理想形であって、その言葉通りに現役生活は勿論、引退後の親方になっても、そのものの通りになった例は皆無と言っていいでしょう。

 やはり、心技体という相撲道という、その道における精神といったものは、努力より精進こそがぴったりときます。相撲が、単なるスポーツや格闘技とは違う理由です。白鵬と同期でライバルでもあった、寡黙な元横綱稀勢の里は、<精進>を用いて大関に昇進してもいます。

 技と体だけならば、努力でいい、努力だけで済む領域です。ここに、心というもう一つ自身の立ち居振る舞いを加味する段階、自己を律する、範としての姿をも体現するのが、大関以上の心の身だしなみともいえるものかも知れません。V9の監督川上哲治やライバルでもあった南海の黄金期の野村克也などは、「長嶋や王は、巨人軍の主軸でスーパースターでもあったが、それ以前に、チームの鑑、模範でもあった」この両氏の指摘は、まさしく、長嶋や王が、努力の次元を越えて野球道に精進していた証とも捉えられる言葉です。

 この精進という概念であります。近代から現代に、特に、戦後になり、その精進から努力へと、簡略的に、ほぼ同義に用いられてもきたようです。丁度、戦前では、輿論というものと世論というものが峻別されていた状況が、戦後常用漢字の規定で、同じになってしまった悪しき慣例とも類似してもいましょう。令和の高校生に、文化と文明の違いを説明できる以上に、輿論と世論の違いの如くに、精進と努力の違いは判別できることは難しいことでありましょう。

 この精進も、努力も、ある目的・目標・夢にむかって刻苦勉励する心的態度を言いあらわす言葉である点が共通してもいましょう。しかし、今回は、努力という練習的な精神と、精進という鍛錬的な精神が違う点を強調しておきたいと思います。月並みな謂いですが、努力は、その結果が失敗すると心がポッキンとなりがちです。これは今風に、心が折れるという表現をします。その目的行為が、自身に無駄と感じられ、その失敗が、トラウマ的マイナス体験ともなってしまう傾向にあるのに対して、精進は、その結果が失敗、思わしくないものでも、そのマイナス体験をプラス経験に転化するメンタルがコアになってもいます。具体的には、第一志望の大学に合格できなかった際、浪人して再チャレンジして、本願を成就するとか、第二志望の大学に進んでも、自身のやりたいこと、すべきこと、なりたい将来像へ、再度努力する気概を持ち、第二ステージへと進む心もち、それがまさに高校時代に努力ではなく精進したとも言える心的姿勢であります。

 英単語において、一切同じ意味合いの語はないとされるように、形違えば、意味もニュアンスも違ってくる、同じ意味のように見えながらも、厳密には同じニュアンスのものは二つとしてないという、至って当たり前の言語学的観点から語ってみたいだけです。しかし、こうした意識は、昨今、スマホなどデジタル化社会では顧みられなくなっている趨勢にあります。

 努力とは、自他ともに凡人には目に見える行為、しかも、欲の中心に位置している短期的・一回性の修練ともいっていい精神を謂う。それに対して、精進とは、凡人には見えない行為、しかも、欲の周辺に、円環的に移動しもする、長期的、永遠性を有する鍛錬の精神であります。野村克也は、この精進の別像を“無形の力”と呼んだに過ぎません。この精進は、会社内の、仕事以前の整理整頓を徹底させる社風、この典型は、日本電産であります。この会社、M&Aで大きくなった典型的な会社ですが、あのカリスマ永守社長は、買収した会社に、即、この行為を徹底させたそうです。また、高校野球などの、練習以前の、挨拶、道具の整備や便所掃除などの徹底です。これは、大谷翔平の高校時代の“マンダラチャート”でもありましょうか。

 再度申し上げます。高校生の大学受験の通過儀礼でも、その勉強が、努力だったのか、精進だったのか、その後のキャンパスライフを決定してもいようかと存じます。第一志望の大学に合格しても、その後、希望する会社や仕事に就けない学生は、大学受験の行為は、受験努力のメンタルでもあったと言えましょう。それに対して、第一志望の大学に進めなかった学生でも、その後、大学でさらなる努力を惜しまず(これは精進です)、希望する企業や職業につける者、これは高校時代に精進したともいえる方々です。この後者は、受験勉強を経て、人間的にも成長した証です。

この文脈で、野村克也は、「人間的成長なくして技術の進歩なし」とプロの世界に入ってきた新人高校球児に諭すわけです。これは、吉川英治の『宮本武蔵』の中での話ではありますが、小次郎と武蔵の巌流島での決闘の紙一重の差は、こうした、剣という技術・技量だけに励んだ(努力した)達人、それ以外にも精進した達人、その違いでもありましょうか。その点こそ、吉川英治が言いたかったことでもありましょう。

 これも、野村克也のものですが、プロの世界で中堅として大成した選手(30歳前後で目が出た選手:年収1憶円以上のプレーヤー)に投げかける言葉です。「欲から入って欲から出でよ」これも、努力と精進の違いを証明するものだと思います。努力は、欲の中心に静止してる、この欲に妄執する性質があります。一方、精進は、欲の周辺に常に浮遊している為、次の欲へとステップアップ、フェーズの切り替えができる、これも、精進が努力にまさる性質であります。
 これは、三冠王を三度も取った落合博満の言葉でもあります。

 「その道を極めた人、大成した人間の吐く言葉は、野球選手であれ、サッカー選手であれ、オリンピック選手であれ、真実味がある、一家言ある含蓄のある言葉になる」

 こうしたアスリートの金言は、努力を越えた、精進した人のものであることが大まかハズレではないように思われます。意外やもしれませんが、大相撲界の名横綱の金言集や名言集の本は、ほとんど聞き覚えがありません。やはり、相撲取りの致命的側面は、本を読まないこと、野村克也にとっての人生上の、“知”の恩師でもあった草柳大蔵のような知識人がいないことが挙げられましょう。相撲取りで、趣味は読書とはほとんど聞き覚えがありません。現代っ子の力士は、暇な時間は、ゲームかスマホのどちらかであると言います。あの宮本武蔵に人格を陶冶した、書籍や書、陶芸などの世界は、力士には、別世界でもありましょうや?

 私が常々引用することですが、哲学者森有正の<経験>の文脈で申し上げれば、現役時代に、高校時代に、自らの練習や勉強という努力を体験で終わらせた者、それを経験に昇華させた者、それが、人生の様々な段階を上がってもゆく気概となってその人を成長させもするかと存じます。
 最後に、精進と努力の違いは、一科学者についても当てはまります。神を信じる科学者と無神論者の科学者との違い、意外やもしれませんが、歴史上の、有名な科学者は、無神論者ではありませんでした。自利の域を出られない経営者と自利利他を常に念頭においている経緯者、これも、同様であります。そうした人々のリトマス試験紙、それが、努力と精進との違いでもあるかと思います。(つづく)



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