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努力と精進は、恋と愛のようなもの

 言い古された言葉、手垢まみれの言葉、人口に膾炙しながらも陳腐化してしまった言葉、それが現今の努力という言葉の正体でもありましょうや?
 
 この努力という言葉、母親が、小学生の我が子に「もっと努力しなさい」と投げかける経緯からして、子ども時代から勉強などに対するお題目・お念仏的な言葉になれ下がった感が否めません。つまり、重みがなくなった、昭和の黒の置き電話、平成のガラケイ(二つ折りの携帯電話)のように、まあ、通信のレトロ、アナログ的ツール同様に、自他問わず、投げかけても、見向きもされない言葉になれ下がった感が否めない、それほど変貌、退化してしまったようです。
 
 “この努力、努力しなさい、努力しなければ”、こういったフレーズは、丁度、箱根駅伝の国道一号線沿いの観客が、また、後続するその大学の監督が、投げかける「頑張れ!」と同様のものといってもいい。まさに、その区間20キロ前後を、精一杯駆け抜けよ!くらいの激励の呪文のようなものでもある。努力イコール頑張る、その程度でもありましょう。ただその言葉を掛けられた、本人の捉え方、受け止め方、それがその言葉の比重になっているに過ぎません。主観の世界の言葉であります。
 
 ここに、努力は、短期間の目標へ向かう精神的な踏ん張りといえるも所以があるのがお分かりいただけましょう。一方、精進は、長期的な志向対象へ向かう崇高な精神ともいえましょう。
 
 具体的に申し上げれば、努力は人生のそれぞれのフェーズにおける刻苦勉励、ですから、大学受験、就職活動、会社内の出世(昇進)、何らかの資格試験、会社の経営(成長)など、それぞれの段階で、異なる努力が求められるが、一方、精進は、その全体の人生の流れの中でのひたむきさ、技能や技術の能力面ではなく、人格的成長、教養面の厚み、こうしたものをマクロに含んだ謂いとも申せましょう。端的に申し上げれば、知識は努力で、教養は精進で身につく。こうした人生上の法則を孔子は、集約的、凝縮して、次のように語ります。
 
 吾、15にして学に志す。30にして立つ。40にして惑わず。50にして天命を知る。60にして耳に従う。
 
 この人生の真理に気づかぬ者は、ただ、月並みな努力はしてきたにしろ、精進はしてはこなかった証拠とも言えましょう。その努力とは、まるで、ファミコンゲームの様々な段階をクリアしてきたという満足感の域をでません。
 そうです、様々なテレビゲームをクリアした、その達成感、それは努力したとはいえますが、精進したとはとてもじゃないが言いきれません。柔道や剣道など、その大会で優勝した選手は、練習は勿論、様々な試合の中でも精進したと申せましょう。ここに、私が、時代遅れやも知れませんが、eスポーツというものに賛同できない所以があるのです{※やるのは勝手です、また世界大会があるのも自由です、ただオリンピック競技には疑問符をつけざるを得ない}。この面においても、令和の時代、デジタル化の時代、努力という行為にも、科学的手法、合理的精神というものがついて回ってきます。それが、「努力とは、正しい場所で、正しい手法で、適切な量をことなした時のみ、裏切らない」という、狡猾な表現の淵源ともなっている点でもあると言えましょうか?この意味で、今日的意味で、努力とは、科学的練習、合理的勉強と言い換えてもいいかと存じます。極論ですが、この文脈では、努力とは、コスパやタイパと同類のメンタルに入ってしまう範疇のものだとも言えましょうか?
 
 では、数回にわたり、努力と精進の違いを語ってきたその私流の結論を申し上げる段階にきたようです。
 
 努力と精進とは、恋と愛くらいに違いがあるものです。
 
 恋とは、一方的に、相手に惹かれる感情、また、双方が、お互いの美しい・良い面のみに魅了され引く付け合う心的現象とも申せましょう。恋とは、相手の良い点に猪突猛進して、その対象をゲットしようと必死に、欲に駆られてもがき苦しむ心的葛藤とも申せましょう。ですから、結婚など、男女の交わりなど、そうした段階を経ると、もう、恋とは申せません。次の段階の、愛という精神にステージアップする必要があるのです。これなんぞも、小学生が名門私立の中高一貫校へ合格し、その後、成績が伸び悩む、また、大学合格して、サークルやアルバイトに明け暮れて、積極的にアカデミックの勉学に精進しない学生、さらに、プロ野球選手になりながらも、プロで目が出ない選手などは、まさに努力はしたが、精進という行為ではなかった証明です。開成に入ることが目的、東大に合格することが目標、巨人に入団することが夢、こうした種族は、それぞれのフェーズの努力を個別にしてきたに過ぎません。精進とは、その目的・目標・夢といった先の先まで見据えた計画的刻苦勉励でもある違いです。こうした点にも、メジャーリーガーと日本のプロ野球選手との決定的な違いがあると思われます。
 
 真の恋、まともな恋愛をしてきたカップルは、幻想や幻影を抱かぬものです。愛へステージアップしたからです。結婚して、次の段階は、人生の同志ともいえる存在へと変貌と遂げます。その後、子どもができる、我が子への恋などとは申せません。愛、愛情がわく、家族が、さらにその男や女に第三段階の愛へとステージアップさせます。
 恋のみで結婚したカップル、恋で完結してしまった男女は、同居するとお互いの粗が見えてきます。すると、性的魅力も薄らいできます。ここが、月並みな努力と同じ次元にあるメンタルなのです。学業成就して希望の学校に入っても、全く勉強しなくなるメンタルと同じものがあります。
 恋愛段階は、男女の欲の駆け引きで、仮面を被り、良いところを見せあいます。これは、表層的な努力と比類もできましょう。
 結婚生活は、日常における幻滅との、ある意味、格闘とも申せましょう。ですから、内面の世界の勝負の段階でもあります。お互い、良い面を尊重し、悪い面には寛容になる、お互いを、できればリスペクトするメンタルも必要ともなりましょう。30歳前後で結婚し、その後晩年まで、愛という構築物をお互いで築き上げてゆくそのプロセスは、プロのアスリートは勿論、思春期の受験生にとっても、精進そのものでありましょう。努力といった代物では、当然ながらできない行為であります。
 
 努力とは、欲望の対象へ猪突猛進する勤勉さの謂いで、恋に似ています。一方、精進とは、同じように目標や夢へ奮闘努力するひたむきさの謂いで、愛に似通ってもいます。恋とは、せいぜい、十代から二十代への性欲の外見的表現ですが、愛には、様々な愛がります。子どもへの愛、動物愛、国への愛、しかし、恋とは、そうしたものへは言い得ません。あの文豪三島由紀夫は、愛国心、国への愛、それで自死したとも言われますが、それは、恋国心、国への恋、それが、あの悲劇的事件のフックとなったとする文学研究者もいます。その通りだと思います。その点で、昭和天皇、平成の上皇陛下、今上天皇はそれぞれ、自身の立ち位置からして、国民への愛というもの、微妙にずらして抱かれてもいられましょう。ここに恋を遥かに超えた愛というものの奥深い実相が見えてもきます。これは、まさしく、一個人、一人人間における精進というものが、努力とは大きくかけ離れてもいる点であります。
 恋の成就には、一般的に努力で足ります。しかし、愛の完成には、精進が必要なのです。この努力という、知識の習得で、大学生になった男女は、高等教育で、精進というものが求められます、なぜか、それは、大学という社会の入り口では、教養というものが必要不可欠でもあるからです。教養とは、知的精進以外の何物でもありません。高大接続という文脈でも、高校の段階から、努力ではなく、精進というものを自覚して受験勉強に励むことが肝要かと存じます。

 

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