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パリ五輪団体戦<柔道・フェンシング>で感じたこと

 日夜、パリ五輪の話題で沸騰する8月初旬であります。今大会で非常に印象的なのは、柔道の団体戦、そしてフェンシングの団体戦での、それぞれフランスと日本の金メダルであります。柔道は日本発祥、フェンシングはフランス発祥の“スポーツ”であります。この点、非常に興味深い問いを投げかけてもきます。
 
 東西文化の、地球の反対側といった真逆ともいっていい文化国家で、その影響の与え合いといったものは、近世の浮世絵と近代の印象派といったものが象徴的でもありましょう。幕末の光景もそうです。文明国への猪突猛進を目指す薩長には、イギリスが、中途半端な準文明国であらんとした幕府側には、フランスが援助したこと、文化史観的に興味深いものがあります。
 
 フェンシングの騎士道精神と、柔道の武道精神とが、文明というより文化という次元で通底してもいます。それぞれ、クーベルタン男爵と加納治五郎との“友愛の精神”がそうした文化交流の礎を築いといっても過言ではありません。
 
 まず、柔道であります。この柔道愛好者の国民の数はフランスが55万人、日本は12万人と、かの国が本国の4倍強もいるという現実が目を見張ります。フランスといえば、国民的スポーツは、サッカーやラグビー、またテニスといった球技が思い浮かぶのが普通ですが、そうした常識を裏切るのが、このフランスにおける柔道熱といったものです。今や、フランスは世界一の柔道大国になっているのです。この事実は、世界一のイスラム教徒の多い国がインドネシアであることと似たものを感じてしまいます。
 
 バルセロナ五輪の銀メダリストの溝口紀子は、「フランスは柔道偏差値が高い!」とテレビで発言していました。彼女は実際に、フランス代表の選手を指導した経験がある人です。真実でありましょう。一方、北京五輪で銀メダルに輝いた太田雄貴が、ネックとなり、近年フェンシングの日本の実力は、急上昇中でもあります。前回の東京五輪と今回のパリ五輪を概観しても、本来の騎士道精神が根付き(?)、浸透してもいる(?)仏・英・伊を凌ぐ実績をあげてもいます。ですが、“日本はフェンシング偏差値が高い!”とは、口が裂けても申し上げることはできません。一部のフェンシング関係者の、研鑽・研究・精進のたまものでもありましょう。特に太田氏の功績は大きいと申せましょう。
 柔道が国民的スポーツとなっているフランス、方や、フェンシングがまだまだマイナーなスポーツでもある日本、しかしながら、好対照的に、五輪という超晴れの舞台で、金メダルという興味深い現象、前者のフランスはわかります、一方、後者の日本は説明が難しい現象です。
 
 実は、この、日本のフェンシング金メダルラッシュは、21世紀に入っての日本人のノーベル賞受賞者の数とパラレルのように感じてなりません。アジアにおける自然科学系の受賞者が、抜きんでていることと、フェンシングの今大会の金メダルの数の原因と似たものを感じてしまうのです。
 世界の最強のアスリートを有する卓球と体操に関しては、「中国は偏差値が高い!」とも申せましょう。絶対的アスリートの数が分母にいるわけですから、ちょうど、フランスの柔道と同様であります。私の直感ですが、アジアで柔道が、比較的強い国が少ないのは、戦前の軍国主義による統治の影響、その淵源でもある武士道、その柔道のいい面に目が行き届かないその国の政治家が原因だと思われます。中国は、恐らく、日本文化の“象徴”でもある“礼”を有する柔道に積極的政策がとられてもいないからだと思われます。中国人、いや、アジア人というものは、他国の文化より、西欧の文明に惹かれる傾向が高い、合理性・実利性優先の民族が多いからでもありましょう。卓球や体操といったものは、文化的色彩、匂いといったものが比較的薄い、そのため中国が、目の色を変えて、選手を育成しているものだと思われます。
 
 この場では、敢えて踏み込みませんが、産業革命発祥地域でもある西欧の文明国(英仏独など)が自然科学系のノーベル賞受賞者が多いのは当然ですが、その根拠を裏打ちしているものは、やはり、連綿と続く伝統的文化が裏支えてもいるという真実です。この事実は、日本におけるノーベル物理学賞・化学賞の受賞者、湯川秀樹(漢籍の素養)、福井謙一(夏目漱石の超愛読者)、益川敏英(芥川龍之介のフリーク)、などの経歴を概観しても国家レベルでなく、個人レベルでも言い得る真実であります。
 
 日本は、少子化という国難、それも高齢化と同比例して、国力を衰退させもするというマイナス思考が令和の世を覆ってもいようかと存じます。高等教育においても、就職率や研究職に就ける可能性を考慮してか、博士課程に進む学生も激減し、更に、平成の後期以降、大学生で奨学金をもらい卒業する学生が、2人に1人の割合で激増している現実、こうした悲観的実状は、日本のフェンシングアスリートの育成方針を少しでも参考にできるのではないか、「フェンシング偏差値は低い!」しかし、少数精鋭で、五輪から様々な大会で実績をあげもいるその手法は、教育界も見習うこと、そうでもしなければ、明日の、日本はないと考えてもいいのかと存じます。
 
 日本の流通業、スーパーやコンビニ、そうした小売り業態は、はたから見ると、外見は皆同じに見えましょう。しかし、そのスーパーで売っている食品の種類や数の多さ、総菜や弁当のきめの細かさ、また、コンビニの販売食品の多様性、こうしたものは、日本のスポーツ界にも言いえることではないでしょうか?外国人が、日本に来てまず訪れたい場所は、コンビニと応える所以でもありましょう。そうしたものの中のヒット商品、それが“日本のフェンシング”でもありましょうか?
 日本では、世界三大料理の、全ての超一流が味わえる。隠れた四大料理にしもいい、和食というもある。これが日本の食文化の強みでもある。これと同類でいいえることが、スポーツという範疇の人間が行う文化というものでもありましょう。洋食というジャンルさえある。これは、ベースボールを野球にしたものに近い。恐らくであります、極論・暴論やに響くやもしれませんが、近年の日本のフェンシングが強い一番の原因は、本来なら、剣道で生かすべきノウハウ・コツ・テクニックなどをフェンシングに換骨奪胎したものやもしれません。そう、日本人は、すべてにおいて、この換骨奪胎の名手なのです。その淵源は、日本語に存します。漢字、ひらがな、カタカナ、そして和製英語などのアルファベットなど、これほど様々の文字を巧みに使いこなしている国民はいません。この難しさから、日本語は難しいという風評が生まれる。また逆に、日本人の外国語(英語など)苦手コンプレクスが生じる。実は、この日本語の難しさに対応する能力が、文化の多様性への適応の難しさでもあります。日本人は、この超難行を行ってもいるのです。
しかしながら、こうした日本語への適応力といったものが、異文化交流、真のグローバル化の模範ともなるものです。真の国際理解、多様性への寛容、このような克服には、外国人の日本語の習得と同じものがあるのです。

 

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