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英文和訳なき英文読解は、礼や忠なき仁に同じ

 前回、中学生が、手を使い、ペン習字帳に、それぞれの月や曜日など書いて覚えようとしない傾向が、読み、発音はできるが、正しい綴りが書けないことを指摘しました。では、この、鉛筆(シャーペン)で、中学生で英単語を書く行為というものが、高校生では、英文和訳を行わない第2ステージへと“悪のらせん階段”を登ってゆくように思えて仕方がありません。
 
  中1~3:英単語を書く行為=高校1~3:英文和訳をする行為
 
 小学生の漢字をジャポニカ学習帳に書く行為、中学生の英単語をペン習字帳で書く行為、こうした態度が、高校生の英文和訳をノート書く行為へと、それぞれ、学習習慣で連綿と続いてもゆくことを指摘しておきましょう。
 実は、これは、中学3年から高校1,2年、できれば3年くらまで、今では、全く流行らなくなってしまった、英文和訳というものの大切さを言いたいのです。今や、英文読解という、大まかで、内容が解れば、それでよしとする風潮が大勢を占めてもいます。この英文読解と英文和訳の間に介在してもくるものが、英文解釈でもあります。この英文解釈なる用語も平成後期から死語に近いものになりつつあります。私の教え子の高校生などは、この用語、実は学校の教室内ではなく、自身が購入した参考書や問題集によって知ったと言います。あの東進のカリスマ英文法講師今井宏がある本の中で力説しています。「訳なんて意味がわかればいい、その意味がわかれば、さあ音読だ!」といった類のものです。「綺麗な訳なんて、拘るな、意味が解れば、そんなものはどうでもいい」とも語っています。
 
 しかし、この英文和訳には、ちょうど、英単語の綴りをアルファベットで確実に書ける能力と同じものが、その作業には内包されてもいるのです。英文解釈を経て英文和訳、このプロセスとは、数学の問題のその解法の重要性にも通底するものがあるのです。あの今井氏の見解だと、「解き方は、いい加減でもいい、なんとなく解けた、それで正解ならそれでいい!」こうした態度で、英文に接しても構わないということでもある。パソコン、スマホが、身体の一部もなっている21世紀において、わざわざ曜日や月の英単語の綴りなどに執着する必要はない、ネットで検索すれば、すぐその知識を教えてもらえる時代、暗記主体の勉強は時代遅れであるといった意見と同様のものに思われます。こうした考えの最右翼が、ポケトーク、グーグル翻訳機能全盛の時代に、英会話など無駄、不要だといったものを呼び込む言説であります、それと同じものです。
 
 効率主義者、合理主義者に対して、「英文和訳なる行為は、実は、母国語である日本語をも客観的見られる知性が身につく」と、高尚なる知的真実を申しあげても、馬の耳に念仏であります。ここにも、“コスパ・タイパイデオロギー”が“学習精神を汚染”してもいる実体が見えてもきます。こうした連中は、あの禅宗の竹箒の講堂や庭園の掃除の精神が分からぬ輩でもありましょう。
 
 英文読解(地表)といっても、その内部の名実は、英文解釈(マントル)、そして、さらにその奥底の核となるものは、やはり英文和訳(核)なのです。三層構造になってもいるということです。
 
 儒教の最重要な徳目、つまり、仁をなすことは、形式的な徳目でもある礼、そして内容的な徳目でもある忠・恕を実践しなければ確立しないように、この英文読解だけを主張する、曖昧模糊とした英語教育の方針、それも、英文解釈、実は、この根底には、英文法と英語構文の両輪に拠る英文和訳という存在が欠かせぬことは、英語検定協会から文科省にいたるまで、ただただ、仁を身に付けよと主張するに等しい、無学なる江戸の大名(文科省)もしくは無知なる寺子屋の師匠(中高の教師)に等しい存在に見えて仕方がないのです。
 
 野球における、素振り、キャッチボール、そして、トスバッティング、ノックによる守備練習、こうしたものが、手で書く英単語の定着であり、ノートに書く英文和訳でもあることを英語教育世界の人々は忘れてもいるようです。実は、英文読解とわめいていても、それは、練習試合だけで、野球のスキルを向上させなさいと主張するに等しい。こうした、悪しき慣行は、従来の英文法(グラマー)や英文読解(リーダー)なる用語が、テキストやカリキュラムから放逐されて、コミュニケーションⅠ・Ⅱとか、英語表現Ⅰ・Ⅱとか、内実が不明なるものになりつつ現状が、その深刻化な状況を象徴してもいましょう。

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