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米津玄師が語る"夢"というもの

 最近、以前には全く地上波にはお目見えしたことがない歌手米津玄師の、メディアでの露出度がすごい。すごいと言っても、日曜日夜のバラエティー番組、『日曜日の初耳学』(TBS)『EIGHT-JAM』(テレビ朝日)などに限ったことだが。
 その米津が、『日曜日の初耳学』で語ってもいたことが、特に彼の音楽の歌詞の世界と彼の風貌とは対照的で印象深かった。この真実を、歌詞にして、歌っているアーティストは、メロディーも当然よくてはならないのだが、そのアーティストの名曲ともなり、ヒットする。

 「誰でも、夢を抱く、しかし、それが実現できない人がほとんどですよ。たいてい、夢なって叶いませんよ。でも、その夢に向かって努力する過程で、その人の感性や技能などが研ぎ澄まされてもゆく、また向上してもゆく、そこにこそ、夢を抱く意義があるんじゃなないか。夢を抱き、それに突き進んでゆく過程で、自身が成長してゆく、そこにこそ、夢の存在意義があるんじゃないか」

 確か、以上のような内容のことを語ってもいた点が、彼のルックス、そして、曲調に反して、彼の精神性というものが感じられてもきて、彼には失礼だが、意外でもあった。私自身、米津の音楽は、ほとんど聴かない、また、彼にも興味もない。一番ヒットした曲『LEMON』も、私の感性が老いたのか、時代にシンクロしないのか、心にはあまり響いてもこない。まあ、時代的には、名曲とは、言い得るだろう。彼の歌は、タイアップしたドラマや映画、またその他、巷で頻繁に耳にする程度だが、個人的には、自身の好みの範疇には入らない音楽でもある。

 特に、この『日曜日の初耳学』番組内で、語った自身の生い立ち(四国の、自然豊かな田舎で育ち、おじーちゃん子・グループで音楽をやることが性に合わないなど)や歌詞の経歴(種田山頭火や石川啄木などの影響)など、ふむふむ!そういうバックグラウンドがあったのか!といった印象だけだった。

 この米津の発言から、夢とは、いったい人間にとってどういう意義、また、生きる上での糧ともなる存在たりうるのか、感じ入ったことを、述べてみたい。

 夢、目標、その対立事項として、努力という措定行為が求められることは、目標には、義務が伴うという人間の生きる上での摂理と同じものがある。それは、個人レベルでのことで、これは社会的レベルでは、<権利と義務>ともいう。夢を抱く権利は、努力という義務が伴うということでもある。この文脈でいえば、学校内の宿題や提出物を処理する労力、会社で営業成績を少々あげる、実務処理をするなど、当然こうした行為は努力とはとても言えない。内発的に情熱が湧き、生理的・心理的・肉体的な苦難といったものを粉砕してゆくプロセスが努力という言葉に値する。ここに、米津がいう自身の成長の証が現れもする。この文脈で、よく世の成功者・有名人が吐く教訓的フレーズ、「成功からより失敗から多くを学んだ」{これは、当然の真実である}「有名に、裕福になる以前の、売れない苦しい、貧しい時代の方が記憶に、鮮明に残ってもいる、また、その時代の方が今では、不思議と“幸福”だとも感じてしまう」という次元でも同じであろう。この真実は、“艱難汝を玉にする”、その過程で、その当事者には、自覚はされないながらも、精神的・能力的に成長し、その才能爆発寸前の、臨界点の直前にいたる生の充実感の、その軌跡として刻印されてもいるかであろう。

 実は、ここなのだ!夢が実現する・しないの次元を越えた領域に、自身が予想だにしない、次の段階の“夢”というものが、待ち構えている、いや、現れてもくるのである。その“夢”とは、生きがいといも言い得る人生上の天職である。ここで断ってもおくが、<実現された“夢”>イコール<その後の“生きがい”>とは限らない点も忘れてはいけない。この悪しき事例は、東大合格を、甲子園出場を、いつまでも周囲の者に語る人間である。そうした、種族は、大方、その後、超凡庸なる人生を送ってもいる、人生行路を、下降線で他者の“乗り物=有名企業という暖簾”に乗って、下り坂を進んでいる、また、とぼとぼと歩んでいる凡夫に過ぎない。

 例えば、国家公務員一種という、最難関の試験合格を夢見て、霞が関のエリート官僚になった者、また、弁護士を夢みて、司法試験に合格した者、彼らは、次の段階では、もはや夢というものが描きようがない。描きうるものは、その試験後の青写真があったものである。ある意味、自身の夢を実現した、次の段階は、それを人生の生業とする、生の充実感がともなう、生きがいというものが湧き上がってこなければならぬ、それこそが、その当人の、人生のパッションともなる。
 この文脈でいうと、大学を出て、地方公務員、一般企業でウイークデーを働き、土日祝日に自身の趣味に明け暮れている人生を、のほほんと生きている。そうした生活に人生の意味・意義を見出す部族、一方、中卒や高卒で、寿司職人やケーキ職人など、自身の仕事が、ある意味、趣味と一致して生きている部族{彼らは、趣味を持たない}、この二種類の世界における、生きがいという、生の充実感の温度差があるようの思われるのである。

 ここに、報酬という観点が加味されて、少年少女の憧れの職業が、スポーツ選手・俳優・歌手・芸人といったものに集約されもするであろう。好きなことをして、お金が入ってくるという世界である。

 最近、特に、その経歴が有名にもなってきた俳優、西島秀俊(横浜国大)、むろつよし(東京理科大)、堺雅人(早稲田大学)など、高学歴でありながらも、敢えて、貧乏な20代、30代を舞台などで生きて延びてきて、大成した役者である。その別の人生行路(月並みなサラリーマン生活)を思い描いた時、荒涼として、生きてはいるが死んだも同然(日常を“死んで”生きている種族)ともいいうるに日常を生きてきたであろう、それに、意識無意識から知らぬが、彼らの生き様が、まさしくそうした根拠ともなっていよう。彼らは、人生の生きる充実感が味わえる、自身の生きがいに無意識に早い段階で気づいた人々でもあろう。

 こうした事例は、ミュージシャンに、特に多い、青山学院を中退した桑田佳祐、明治大学を中退した山下達郎、慶應大学を中退した竹内まりやなど、枚挙に暇がないほどである。

 だが、役者であれ、音楽家であれ、彼らは、持てる人でもあった。つまり、ギフティッドであったことである。ここが、凡庸な、何の取り柄もない一般人との違いであり、セレブとなった芸能人と自分とは一線を画する自覚も必要となってもくる。

 では、月並みな才能や知力しか持ち合わせていない種族は、思春期の夢破れし、そのあとさきをどう生きるべきか、どう人生を歩むべきか、それを次回語ってみたい。(つづく)



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