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夢の"事実"と"真実"

 昭和の時代、私が、中学生の頃だっただろうか、地上波放送でまだ、放送コードやらコンプライアンスなど皆無の時代でもある、スター的芸能リポーターでもあった梨本勝か鬼沢慶一だったかは忘れたが、「芸能レポーターは、俳優や歌手の離婚の事実を伝えはするが、その真実までは伝えられない」このような言葉を吐いていて、思春期の私は、世の中、社会といったもの、男女の関係やものごとといったことが、実相とは、目に見えないもの、良識と知性などでしか、それを喝破するしかないという、ものごとの真実・本質に気づかされた覚えがある。いや、事実と真実の違いというものを熟考するヒントを与えられたような気がした。私には、ワイドショーも“教師”であった。

 ここで話しは、その夢{男女の恋愛}というものの、<事実と真実>について語ってみたいと思う。

 小学生の将来なりたい職業ランキングと高校生のそれの変化である。夢の変化である。

 小学生の頃は、野球選手やサッカー選手、医師や宇宙飛行士など、ベストテンに男子だとランキングされるが、高校生ともなれば、そうした職業は、圏外へと下がる。これらは、夢というものへの対費用効果、いわば、努力と環境(金銭面)といった現実的要因が強烈に意識されてもくるからだ。ここにも、「成功の反対は、失敗ではなく、妥協である」(木村政雄)という凡夫のメンタル法則が垣間見えよう。

 夢とは、拙劣なる、粗削りの欲望の、綺麗な理想像でもある。夢とは、丁度、太陽に照らされて夜、輝いて見える月のようなものだ。古代の人々は、夜、自ら月が、日中の太陽の如くに、皓々と照っているものと思っていたであろう。しかし、それは、太陽の光により、照り輝いていたことを知らいない、その精神が、まさしく、小学生時代の月を眺める心根でもある。しかし、近代人ともなれば、その月が、科学の進歩により、太陽の光により輝いてもいる不変の真理を知るメンタル、それが高校生の夢への淡い憧憬と重なってもくるのである。
 この太陽の恩恵で、夜、美しく輝く月という憧憬の対象とも言える夢は、まさしく、生来の才能・技量・知力・体力・環境・財力などで、大きく左右される現実を、十代後半の若者は知ってしまうのである。この現実の、厳しい実相を跳ね返す流儀・格言として、よく耳にするのが、<運・鈍・根>といった、凡庸なる種族の処世術、つまり、成功への、“百姓的”戦略とやらである。また、皮肉なことに、この凡夫の手法を実践するには、現代人は、賢すぎてしまう、お利口過ぎてしまう、そうした気質{※タイパやらコスパといった言葉にそれが象徴されてもいよう}が、一般人には身についてしまっている、いや焼き付いてもいる。ここに、成功の反対を失敗とはしたくない我執が、自身を妥協へと誘うわけである。東大がダメなら、早慶、早慶が厳しいなら、せめてMARCHにでも入ればいいという、自身への妥協である。無意識に甘やかす根性でもある。
 世の大方、8割から9割{※ジャンルによりけり!}は、こうした、夢やぶれし、夢あきらめし、夢わすれし種族でもあろう。こうした学生は、その後、人生の第二ステージ(社会)へ向けた夢を抱かぬものであろうか?いや、それは、夢とは呼べず、目標・目的といった表現に墜する、いや、変貌するのでもあろう。いや、それを、夢と呼ぶ人もあろう、人生は、死ぬまで夢を抱くべきだ、持つべきだとは、多くの成功者・偉人たちも語っているではないか、そう反論もされよう。

 では、この十代の夢(崇高なる目標)、二十代以降の目標(現実的なる夢)、その峻別基準はどこにあるといえるのだろうか、それは、まさしく、自身の職業が、生き甲斐といいうるものか、そうでないか、そこが線引きの閾でもあろう。夢を生きがいにしている高校生、それは、それが潰えた時、絶望のどん底に落ちる、時には、人生の敗残者、時には、自殺までする羽目となる。ここにこそ、夢の事実と真実の実相が浮かび上がってもくる。
 一般にいう“夢”とは、生き甲斐とは別次元のものなのだ。医師になることを夢に、医学部から医師になっても、不本意な職場、未来予想図とは違った自身の姿を垣間見た時、その医師という職業は、生き甲斐とはならない、むしろ、苦難、苦役にすらなるはずである。この現象は、霞が関のエリート官僚にも、また、弁護士にも、さらには有名一流民間企業に入った若者にも、近年、該当しうる現象ではある。医師、キャリア官僚、弁護士、某商社マン、都市銀行員など、おそらく、大学時代の、“夢”でもあっただろう、ある意味、自身の“夢”が実現した部族ではある。しかし、つかみ取った対象に、生き甲斐は見出だせない、湧いても来ない、よって、人生の第三ステージ(学生⇒社会人としての最初の仕事⇒これに該当する)に、準なる夢、それが、人生の目標でもあり、それは、生き甲斐という名に値する天職を見つけよう、見出だすパッションにもなる。この生き甲斐とは、また、別の機会に詳しく語るが、金銭・栄誉などとは別次元の仕事をしている際に、生の充実感が味わえるものなのだ。世の様々な、名だたる職人、陶芸家、料理人、パティシエなど、まさに、彼らの内面の原動力なのである。こうした部族だけではない、定年後に就いたビル管理人、様々な清掃員、倉庫で働く元管理職のサラリーマンなど、少なからず、彼らの内面を流れてもいる。こうした、日常を描き切った映画が、昨年役所広司がカンヌ映画祭で主演男優賞を受賞した『パーフェクト・デイズ』(ヴィム・ヴェンダース監督)でもある。60代以前とは別の、また、通常サラリーマン生活とは別の、生の大河ではなく、生の小川へ、生への自己投機でもある。まるで、曹洞宗の禅僧が、日々行う、掃除、食事、座禅などといた、何気ない日常と同次元の世界ともいっていい精神世界である。

 ここではっきり言わせてもらえば、夢は生き甲斐とは結び付かない、一致もしない、いや、生き甲斐は、夢の敗残者のセイフティーネットでもある、いや、足りうるものである。それが、夢というものの実体、正体なのだ。夢は幸せの必要条件{対象へ突き進む充実感(自己満足感)}ではあるが、十分条件足りえない、いや、成功した者には、十分条件にしなければならぬ義務がある。生き甲斐は、幸せの必要条件ではないが、十分条件たりうるものである。

 この夢という奴は、丁度、恋愛にも似ていよう。その恋が成就し、結婚しても、次の段階の、“愛”というものへとその心を変貌させなければ、夫婦生活、家庭生活は破綻するのと、丁度、似てもいる。夢というものは、十代の少年少女が抱く淡い理想でもある。高校生で、恋人と付き合いもしよう、また、大学生で彼女・彼氏ができもしよう。しかし、そうした段階で、恋が叶い、結婚する人々は、世の中、マイナー派である。それと、夢は、イメージがかぶりもしよう。その後、社会人で出会った異性と恋愛の末、結婚し、幸せな家庭を築くように、それが、第一次“夢”が墜えし後に、人生の、第二の夢(目標)、いわゆる、生き甲斐を見出した者の、生涯の“夢”ともなりうるのである。(つづく)


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