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"中退者"の心の真実

 私自身は、高校を中退した経験を有するが、自身の知己、また、周囲には、そうした者がいない。従って、様々な有名人を俎上に挙げるしかない、そこで、以下のような人々を例に挙げるとしよう。

 世界的レベル、グローバル基準で言えば、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズとあいなろう。日本的レベルでは、孫正義や堀江貴文ともあいなろう。そして、芸能関係では、大橋巨泉やタモリなど、役者では、西田敏行や堺雅人など、ミュージシャンだと、桑田佳祐、山下達郎、竹内まりやなどなどが挙げられよう。ここで、断ってもおくが、以上の方々は、みな大学中退である、高校中退ではない、しかし、それ以前の高校時代、中学時代に、その表面的な人生のレールとは、別個に、そこはかとなく、おぼろげなる“青雲”が見えていたことは確かである。自身の信条よりむしろ、社会の通念に圧されてもいた自己が、そちらに向かわせていなかっただけである。こうした中退者に対して、特に、早稲田大学に関して、牽強付会的言説で、余りに有名は言葉、「早稲田は、卒業3流、留年2流、中退1流」これが昭和の時代、伝説的言い習わしともなった。こうした言説は、今や、IT業界に最も適用できるやもしれない。

 以上のような“成功例”の中退を持ち出すと、大方の人は、もともと才能があった、知能があった、また、運がよかっただの、時代がマッチしていただのと、まっとうな、いや、もっともらしい理由を非中退派の、人生のそこそこ成功組の連中は声高に叫ぶに違いない。実際に、その成功者の人生をリバースで巻き戻せば、それが事実ということにもなるだろう。但し、こうしたがる気質の持ち主は、「親ガチャ」偏差値が高い種族であると断ってもおこう。私がいいたいのは、そうした世のさかしらなる判断基準を素通りしてしまう、月並みな判断基準では、うかがいしれない、中退者の、内面の真実なのである。恐らくは、中退者の多数派、いや、ほとんどは、後悔や敗北感など様々な敗残者の悔悟の念にその後とらわれる人である。それは、結果論的に、その後“成功しなかった場合の人間の内面に湧き上がるネガティブな心情”である。

 この中退感という、言い換えると、疎外感といったものにとらわれる人間とそうでない人間との境目は、「やらない後悔よりやった後悔(もやもや感をその後の人生にあとを引かせるくらいなら、やってダメだったとのすがすがしを選ぶメンタル)」を心に有するか否かの覚悟の度合いにもあると言えよう。卑近な例を持ちだすと、第一志望(東大)に合格せず、第二志望(早慶)に合格したが、敢えて、浪人を決意し、一浪後も、東大が駄目であった受験生の、ある意味、<惨敗の爽快感>といった気持ち、また、何浪も医大や藝大を受験して、叶わなかったアーティスト、音楽家では井上陽水{彼は、3度大学の歯学部を受験してダメだった組}、芸術家では池田満寿夫{藝大を3度チャレンジし、あきらめた組}などがいい例でもあろう。彼らは、世間に見せつけられた、社会通念上の“My Wide Way”へ執着してはいたが、その蹉跌の過程で、自身の本来の“My narrow Path”を何気なく見出し、それを“The Big Way”としてしまった連中なのである。

 この中退者に共通する精神とは、明るき勇猛さ、楽天的蛮勇さ、つまりは、「なるようになるさ!」というメンタル、ファーストペンギンにも比類できる、<三度のメシを賄えられる暗き独房>から、<食い物なき明るい外界>へ出てゆく精神ともいえる、あの五木寛之の『青年は荒野をめざす』の気概とも言えようか。だから昨今の、イジメや、引きこもり、また、落ちこぼれなどの理由による中退を私は、この場で語っているのではない。こうした者たちのメンタル処方箋は、今般衆議院選挙で東京15区から自民党推薦で立候補した、NPO法人“あなたのいばしょ”代表大空幸星氏の書籍や話しをご参照すればいいのである。誤解を恐れずに言わせてもらえば、こうした中退者は、消極的中退派ともいえよう、内面、心の奥底では、学校という多数派にできれば同じになりたい、同和したいが、できないというジレンマがそうさせてもいよう、悪い表現でもあるが、ドロップアウトという烙印を世間からおされがちの若者である。これは、病的、精神的な意味での引きこもり派に陥る連中である。一方、私がこの場で述べているのは、むしろ、ドロップアウトであるが、それが、ドロップアップに見える行為、結局、ステップアップとなった連中なのである。傍から見ると何故?とその行動が凡人には映る勇猛なる行動なのである。ソフトバンクの孫正義の高校中退である。多分である、消極的中退派は、積極的中退者と比較した場合、最大の違いは、この楽天観、将来への“なんとかなるさ”“こうした環境ではダメだ”といったメンタルの有無にもある。「見る前に跳べ」でもある。この典型的な例は、サザンの桑田佳祐である。この実業家孫とミュージシャン桑田に共通する点は、当然、学力と知性・才能がコインの表裏となった、それを前者から後者へとひっくりかえそうとした動機が、久留米大附設高校中退であり、青山学院大学中退でもある。自身の内面にある、日本マクドナルド創設者の藤田田に自身のロマンのヒントを得た孫、なんとなく渋谷のキャンパスに足繁く通いながらも、バンドサークル活動で湧き上がった音楽への情熱、やりがい,いきがいというものと高卒、大卒後の平板で、茫漠たる将来への拒絶、人生への賭け、それが、附設中退、青学中退へと駆り立てたのであろう。このご両人に共通するキャラは、とにかく明るい、楽天的なイメージが離れない。しかし、私が、指摘したいのは、その背後に隠れた“暗さ”なのである。この“矛盾する暗さ”こそ、彼らの中退の行為の後ろ姿でもある。ちょうど、あの中島みゆきの歌詞の世界と彼女のラジオDJの超明るさ、また、さだまさしの歌詞の内容と彼がテレビやライブでかます、ユーモア溢れる明るい話術と小話のコントラスである。特に、さだまさしなどの人生の初期、グレープでデビューするまでの、中学生から大学生までの履歴は、<クラッシック音楽の道からの中退>そのものの人生であったと言っていい。

 これも、孫にビジネスへの商才を見、桑田に音楽への天才を見る、いや、見ようとする者は、中退という真実が見えていないない、また、見誤る人たちである。時代や運といったものを見ようとする人も同義である。

 こうした中退という言葉、その行為をする者の、陰と陽、単と長、その前者が事実(見ない)であるとすれば、その後者は、真実(見えない)でもある。これは、有名すぎる謂いだが、「人生とは、ビジネスも含めて、成功よりも失敗のほうが断然多くのことを教えてくれる」、「人生とは、広き門より、狭き門より入れ」などは、その教訓ともなる、厳しい現実が待ち構えてもいる中退者の路線のススメを暗示してはいないだろうか。この積極的中退の発条(ばね)とは、自身の好きなもの・ことへ目覚めた瞬間のことなのかもしれない。よく有名スポーツ選手や成功した芸能人などが、「好きなことを見つけなさい、やりなさい!」とアドバイスはするが、その“好きなこと・もの”が、見つからない、分からない。それは、畢竟、それをしている充実感、それを相棒にしていても、金銭面や世間体などを忘れてしまう、やりがい、いきがいの源泉のことなのだ。ここに、以前、このコラムでも語ったことが、「失敗とは客観的判断、成功とは主観的認識」という人生の価値基準というものが浮かび上がってもこよう。みな中退をして、成功した種族の無意識なる、生きる規範とは、こうしたものを持ちおおせている、いないかで、そのあと、自身の才能・能力、時代、そして運という連中が、雉や猿、さらに犬という家来をひきつける“キビ団子”にもなるのである。(つづく)


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