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コラム
ワイン英語とジュース英語
以下の抜粋(話)は、名翻訳家にして、東京大学名誉教授、文芸雑誌「MONKEY」の責任編集も務められている柴田元幸氏のものです。AsahiWeeklyの2019年4月21日号に掲載された、“翻訳者のはじめのい~つぽ”のコラムの一文です。
いまはすっかり英語もマスターして、読み書きも聞き取りも喋りも苦労しなくなった――と言いたいところだが実はぜんぜんそんなことはない。中1のころと基本的に変わらない、といったら大げさかもしれないが、聞き取りはいまだに真剣に駄目だし、読む力はさすがに50年前より進歩したけれど、しょせん英語はいまだに自分にとって外国語、おかげで「読めるだけで嬉(うれ)しい」状態がいまなお続いている。この「嬉しさ」は翻訳という仕事をする上でものすごく重要だと思う。これを感じなくなったら、さっさとやめて隠居する潮時だと思っているのだが、なかなかなくならない。
「聴けるだけで嬉しい」状態も続いているが、一度だけ、北欧を電車で旅していて同じコンパートメントに乗り合わせたデンマーク人の女の子が非常にわかり易い英語でさまざまな化粧品の話をえんえんしているのが何の苦労もなく完璧に理解できたとき、あー聴けても嬉しくもないことがあるんだ!と妙に感動したものである。
この箇所を読んで、ましく、私は膝を叩いたものです。
専門家とは、専門以外のことをはっきりできないと言える人のことである。
この名言に引き寄せて言わせてもらえば、‘それは曲解というものだろう!’‘それは牽強付会だろう!’というご批判を覚悟の上で、持論を述べさせていただくことにします。
拙著『英語教師は<英語>ができなくてもよい!』(静人舎)の主旨、英語教師は、非僧非俗であれという原則ですが、この親鸞上人や一休宗純のモットー(生きざま)を英語教師に援用すると、英語教師は、ネイティヴや帰国子女の如く流暢に英語をしゃべれる部族でもなく、また、学生レベルの英語の使い手でもない。しゃべれるプロではなく、教えるプロたれ(※英語ができるようになりたいという衆生としての生徒を救うことを優先にせよ)といったプリンシプルから逸脱してはならないのです。赤子から幼児までなら、その親がその言語をぺれぺらしゃべれることが、即、我が子の言語運用能力に比例します。しかし、思春期に差し掛かる中学高校生を相手に、母語も定着した少年少女を相手に、流暢にぺらぺら英語を話しても、それに比例して、話すという意味での彼らの英語運用能力など上昇しないであろうというのが現場英語講師の本音でもあり、学校英語の真実でもあるからです。“そもそも英語が話せない英語教師に習っても生徒が英語ができようになるはずがない”といった手垢にまみれた従来から言いふるされた意見に対する反論の書でもあります。詳しくは、拙書をお読みくだされば、そうした論拠が如何に底浅い主張であることがはっきりします。
では、柴田氏の文章の言わんとすること、即ち、下線部を英語教師に、次のように言い換えてみましょう。
「教え子が、英語が読めた・書けるようになれて嬉しい」状態がいまなお続いている。この「嬉しさ」は英語教師という仕事をする上でものすごく重要だと思う。~教師自身が英語ができるようになる喜びよりも生徒にも同じ喜びを味わわせてあげようという意欲が勝るということ~
大方12歳から英語をやり、英語の読み・書きの喜びを生徒に味わわせる喜びの比重は、ネイティヴに英語を習い、話し・聞くの能力の喜びのそれの比ではない真実に気づいていない御仁{英語教育改革リベラル派}が多すぎるのです。
でんじろう先生の理科の実験で、物理や化学の楽しさ・面白さを実感する喜びは、初等教育の未成年的、修学旅行的“習う快感”であり、高校レべルの物理や化学の法則を深く理解し、その入試問題を通して‘自然の摂理’知るといった喜びは、高等教育(大学)への、成人の知的好奇心に駆られた旅的“学ぶ愉楽”であります。ある意味、ジュースや炭酸飲料の味と、ワインやウイスキーの芳醇な風味との違いとも言えましょう。英語レベルを、砂糖と人工香味料、炭酸や水で作った清涼飲料の味だけを味わえ、喉の渇きを癒せれば十分だと主張していもいるのが、TEAPの実質作成者である上智大学教授の吉田研作氏であり、東進ハイスクールの英語教師で、政府の英語改革諮問委員も務められた安河内哲也氏でもあります。高校生に求められる使える英語・しゃべれる英語とは、のどの渇きを癒すことが目的で、少々‘甘くて美味しい’と感じられる清涼飲料水の如き‘実用英語’であります。しかし、高等教育への予備段階では、この‘実用英語’を優先して英語を学ぶことは、急がば回れ的学びの逆説的真実に気づかぬ愚かな道でもあるのです。砂山を作る際、底辺を時間をかけて築けば築くほど、その山の頂点は高くなる。底辺を狭く砂盛りすれば、その頂点は、低くなる、こうした学びの真実に築かぬ部族か、今般の英語教育大改革を実行しようとしているのです。
もう一か所の下線部ですが、これなんぞ、私は、‘ユニクロ英語’と命名しました。これから、十年後、スマホの翻訳機能で代替されてしまうような、コミュニケーション英語などにひたすら高校生にもなって、それも、資格系試験{※話す試験を加えたアホらしい試験}というハードルを課す、その無益さにお気づきになられぬ親御さんもまた、フェイクニュースに惑わされる部族と全くおなじであります。柴田氏は、芳醇なワインやウィスキーの風味という、深いコクのある英語を熟知しておられる英語部族であります。それに対して、デンマーク人の女子の英語はジュースやコーラといった清涼飲料水といった、ただ甘く・喉の渇きを癒す程度の英語と申せましょうか?まさしく、文科省が推進しているトラベル英語・サービス業英語・道案内英語といった、将来、スマホの翻訳機能で、「あんなに頑張って覚えた英会話、今じゃ、スマホがぜんぶやってくれる、あの努力は何だったのかしら?」と後悔する“実用英語”でもあります。柴田氏は、電車内で‘ジュース英語’を振る舞われ(聞かされ)て、ちっとも嬉しくなかった。美味しくなかったと妙に感動したとは、コミュニケ―ション程度の英語など、英語としての芳醇な味などないことを揶揄してもいるのでしょう。
いまはすっかり英語もマスターして、読み書きも聞き取りも喋りも苦労しなくなった――と言いたいところだが実はぜんぜんそんなことはない。中1のころと基本的に変わらない、といったら大げさかもしれないが、聞き取りはいまだに真剣に駄目だし、読む力はさすがに50年前より進歩したけれど、しょせん英語はいまだに自分にとって外国語、おかげで「読めるだけで嬉(うれ)しい」状態がいまなお続いている。この「嬉しさ」は翻訳という仕事をする上でものすごく重要だと思う。これを感じなくなったら、さっさとやめて隠居する潮時だと思っているのだが、なかなかなくならない。
「聴けるだけで嬉しい」状態も続いているが、一度だけ、北欧を電車で旅していて同じコンパートメントに乗り合わせたデンマーク人の女の子が非常にわかり易い英語でさまざまな化粧品の話をえんえんしているのが何の苦労もなく完璧に理解できたとき、あー聴けても嬉しくもないことがあるんだ!と妙に感動したものである。
この箇所を読んで、ましく、私は膝を叩いたものです。
専門家とは、専門以外のことをはっきりできないと言える人のことである。
この名言に引き寄せて言わせてもらえば、‘それは曲解というものだろう!’‘それは牽強付会だろう!’というご批判を覚悟の上で、持論を述べさせていただくことにします。
拙著『英語教師は<英語>ができなくてもよい!』(静人舎)の主旨、英語教師は、非僧非俗であれという原則ですが、この親鸞上人や一休宗純のモットー(生きざま)を英語教師に援用すると、英語教師は、ネイティヴや帰国子女の如く流暢に英語をしゃべれる部族でもなく、また、学生レベルの英語の使い手でもない。しゃべれるプロではなく、教えるプロたれ(※英語ができるようになりたいという衆生としての生徒を救うことを優先にせよ)といったプリンシプルから逸脱してはならないのです。赤子から幼児までなら、その親がその言語をぺれぺらしゃべれることが、即、我が子の言語運用能力に比例します。しかし、思春期に差し掛かる中学高校生を相手に、母語も定着した少年少女を相手に、流暢にぺらぺら英語を話しても、それに比例して、話すという意味での彼らの英語運用能力など上昇しないであろうというのが現場英語講師の本音でもあり、学校英語の真実でもあるからです。“そもそも英語が話せない英語教師に習っても生徒が英語ができようになるはずがない”といった手垢にまみれた従来から言いふるされた意見に対する反論の書でもあります。詳しくは、拙書をお読みくだされば、そうした論拠が如何に底浅い主張であることがはっきりします。
では、柴田氏の文章の言わんとすること、即ち、下線部を英語教師に、次のように言い換えてみましょう。
「教え子が、英語が読めた・書けるようになれて嬉しい」状態がいまなお続いている。この「嬉しさ」は英語教師という仕事をする上でものすごく重要だと思う。~教師自身が英語ができるようになる喜びよりも生徒にも同じ喜びを味わわせてあげようという意欲が勝るということ~
大方12歳から英語をやり、英語の読み・書きの喜びを生徒に味わわせる喜びの比重は、ネイティヴに英語を習い、話し・聞くの能力の喜びのそれの比ではない真実に気づいていない御仁{英語教育改革リベラル派}が多すぎるのです。
でんじろう先生の理科の実験で、物理や化学の楽しさ・面白さを実感する喜びは、初等教育の未成年的、修学旅行的“習う快感”であり、高校レべルの物理や化学の法則を深く理解し、その入試問題を通して‘自然の摂理’知るといった喜びは、高等教育(大学)への、成人の知的好奇心に駆られた旅的“学ぶ愉楽”であります。ある意味、ジュースや炭酸飲料の味と、ワインやウイスキーの芳醇な風味との違いとも言えましょう。英語レベルを、砂糖と人工香味料、炭酸や水で作った清涼飲料の味だけを味わえ、喉の渇きを癒せれば十分だと主張していもいるのが、TEAPの実質作成者である上智大学教授の吉田研作氏であり、東進ハイスクールの英語教師で、政府の英語改革諮問委員も務められた安河内哲也氏でもあります。高校生に求められる使える英語・しゃべれる英語とは、のどの渇きを癒すことが目的で、少々‘甘くて美味しい’と感じられる清涼飲料水の如き‘実用英語’であります。しかし、高等教育への予備段階では、この‘実用英語’を優先して英語を学ぶことは、急がば回れ的学びの逆説的真実に気づかぬ愚かな道でもあるのです。砂山を作る際、底辺を時間をかけて築けば築くほど、その山の頂点は高くなる。底辺を狭く砂盛りすれば、その頂点は、低くなる、こうした学びの真実に築かぬ部族か、今般の英語教育大改革を実行しようとしているのです。
もう一か所の下線部ですが、これなんぞ、私は、‘ユニクロ英語’と命名しました。これから、十年後、スマホの翻訳機能で代替されてしまうような、コミュニケーション英語などにひたすら高校生にもなって、それも、資格系試験{※話す試験を加えたアホらしい試験}というハードルを課す、その無益さにお気づきになられぬ親御さんもまた、フェイクニュースに惑わされる部族と全くおなじであります。柴田氏は、芳醇なワインやウィスキーの風味という、深いコクのある英語を熟知しておられる英語部族であります。それに対して、デンマーク人の女子の英語はジュースやコーラといった清涼飲料水といった、ただ甘く・喉の渇きを癒す程度の英語と申せましょうか?まさしく、文科省が推進しているトラベル英語・サービス業英語・道案内英語といった、将来、スマホの翻訳機能で、「あんなに頑張って覚えた英会話、今じゃ、スマホがぜんぶやってくれる、あの努力は何だったのかしら?」と後悔する“実用英語”でもあります。柴田氏は、電車内で‘ジュース英語’を振る舞われ(聞かされ)て、ちっとも嬉しくなかった。美味しくなかったと妙に感動したとは、コミュニケ―ション程度の英語など、英語としての芳醇な味などないことを揶揄してもいるのでしょう。
2019年5月20日 18:01