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コラム
中学浪人時代のエピソード
私の17才の中学浪人時代、文系的知的開花期でもあった。本という存在の大切さ、活字を通した読書という経験の世界、何か、言葉の世界が果てしなく茫漠と広がってもいる、まるで、龍馬が太平洋の大海原を眺め、何か自身の知らない世界を、この閉塞した幕末という時代の活路を想像したように、読後感に浸ったものである。幕末の混沌とした時代、それが、私の中学浪人時代でもあった。勉強が、真にできる奴(欧米列強)というものは、小学校時代(産業革命)から、趣味、娯楽を問わず、読書をしてきた連中であるという“事実”である。読書鎖国時代{厳密には読書ゼロのハンディを持つ時代}を取り戻すかのように、読書開国時代を意識してもきた思春期でもあった。
当然、来年3月の受験合格まで、日々の英数国理社の勉強に勤しまねばならなかったが、東京時代の参考書やノートを復習すれば、それで要足りると睨んだ私は、読書第一、受験勉強は二の次で、日々を過ごしてもいった。
東京の高校を中退し、母の実家の石巻に“学生的下野”をした当時、従兄たちは、仙台の中学浪人専門の予備校に通ったらどうだと私に勧めてもきたが、当時学区制もあり、仙台一高や二高は受験できず、石巻学区の地元の高校を受験することもあり、そこまでしなくてもいい、また、仙石線というローカル線の電車で、片道1時間30分もかけてわざわざ仙台まで出向く気持ちにもならなかった。ゆったりと自身の来し方・行く末を、思索・省察して、これからの人生をマイペースで模索してゆこうという決意のようなものが私を包んでもいたからだ。
その当時、居候として大所帯の実家の主でもある、母の兄でもある伯父の息子である、私の従兄にあたる20代後半Kちゃんが、独身で、その一家にいた。そのKちゃんも、実は、中学浪人して、仙台の予備校に通ってその後、地元の高校に入った口でもあった。その後、石巻高校に入学して気づいたのは、40人強のクラスに数名は、浪人した奴がいたという事実である。これは、地方の昭和の受験事情にもよるのだろうが、この東北という地方は、県立の進学校と私立の進学校(県庁所在地にある)とのレベルが格段にあった。それゆえ、公立のナンバー校に落ちた16才の男子は、敢えて、仙台の私立に通うのではなく、浪人してまで地元の進学校に拘泥する風潮が大きかったということでもある。
恐らく、仙台一高や二高を目指していたら、仙台の予備校に通う決意をし、本を前向きに読む習慣など身につかなかったことであったであろう。いい塩梅かは分からぬが、受験勉強がちがちモードではなく、今の勉学の実力を維持していけば、だいたい合格するという目測のもと、読書の世界へ、踏み込んでいったのが、よかったとさえ思われる。これは、喩えていえば、私立の中高一貫校から、受験勉強オンリーで読書や部活など二の次で、早慶、MARCHの大学に入った者、一方、早慶やMARCHの附属校に入り、メチャクチャ読書なりプログラミングなり、自身の興味なる領域、部活や趣味に没頭していった者、その後者が、17才時の私でもあったようだ。
前回まで語ってきたように、16才までの読書の負の遺産、つまり、16才まで標準的高校生の読書量という“負の借金”に、17才の半年の間で、なんとか落とし前をつけた段階で、それは、そう、高校受験が終わったあたりでもあろうか、合格の目星がつき始めた頃でもあろうか、高校合格祝いに、母への要求、そのプレゼンとして思いついたものが、岩波書店の『漱石全集』と小学館の『日本国語大辞典』{全10巻}というものであった。前者は、読書に開眼して、文学事典などと並行して読んでゆく上で、まず、高校1年の段階では、やはり、夏目漱石を読破しなければ、という確信に至ったからでもある。後者は、たまたまテレビを観ていて、その辞典を言語学者金田一春彦氏が、ことばの語彙のニュアンスの違いや魅力をまじえて宣伝していたことが、気にかかかってもいたし、芥川だったか、作家となるには、辞書を読破しなければならないといか、そういう文を目にしてもいたらである。文学史、色々な作家の経歴や作品のことは、相当身についてはいても、やはり、ボキャ貧ならぬ、言葉、漢字といったものにはコンプレックスが私にまとわりついてもいた。この、言語的劣等感とやらを払拭したい、いや、むしろ、言葉を増やしたい、漢字を得意にしたい、いずれ将来は、モノ書きにもといった淡い、漠然とした夢みたいなものが、私を突き動かしてもいた。
そういえば、東京の私立の高校に入学した際、そのお祝いに、高価なオーディオセットを買ってもらった。中学3年生で、錦糸中学校の、塾仲間(勉強ができるだけではない秀才ぞろいの連中)とよくお茶の水へ、遊びに行ったその途中で、オーディオユニオンというアンプやスピーカーなどの専門店に立ち寄り、そのオーディオ世界に足を踏み入れてもいて、この世界の入門者ともなっていたからだ。家もそこそこ裕福でもあったことで、当時100万ちかくもするオーディオセット(スピーカーはJBL、プレーヤーはデンオン、アンプなどはヤマハ)を入学祝いに買ってもらったことは、間逆でもあろう、漱石全集と日本最大の国語辞典である。一方は、ドラ息子の娯楽、他方は、文学青年の武器、この一年で環境もあるが、人間とは随分と変貌するものである。この高価なオーディオセットは、東京の父から搬送されてきても、ほとんど音楽など聴くこともなく、自室に置かれたままであった。この漱石全集を購入したものの、やはり、読みづらく、悲しいから、新潮文庫で読む羽目ともなる。一方、この日本国語大辞典なるものは、昭和時代の置物のように一家に一つ鎮座しておかれた百科事典の如く、自室の書棚に置かれたままで、実際は、広辞苑でもなく、一般的な、標準の国語辞典を相棒とする日々を送ることにもなってゆく。やはり、音楽(ラジカセ)であれ、読書(文庫本)であれ、勉学(新明解国語辞典)であれ、ハンディーなるものが、やはり重宝されるのである。
高校1年の春、石巻駅前にある、高山書店で、漱石全集と日本国語大辞典を注文して、それは、その後、ほとんど、一年前の高校入学祝いに買ってもらった、オーディオセットともに、自室の置物となれ果てれるのである。いわゆる、インテリアのようなものとして。
当然、来年3月の受験合格まで、日々の英数国理社の勉強に勤しまねばならなかったが、東京時代の参考書やノートを復習すれば、それで要足りると睨んだ私は、読書第一、受験勉強は二の次で、日々を過ごしてもいった。
東京の高校を中退し、母の実家の石巻に“学生的下野”をした当時、従兄たちは、仙台の中学浪人専門の予備校に通ったらどうだと私に勧めてもきたが、当時学区制もあり、仙台一高や二高は受験できず、石巻学区の地元の高校を受験することもあり、そこまでしなくてもいい、また、仙石線というローカル線の電車で、片道1時間30分もかけてわざわざ仙台まで出向く気持ちにもならなかった。ゆったりと自身の来し方・行く末を、思索・省察して、これからの人生をマイペースで模索してゆこうという決意のようなものが私を包んでもいたからだ。
その当時、居候として大所帯の実家の主でもある、母の兄でもある伯父の息子である、私の従兄にあたる20代後半Kちゃんが、独身で、その一家にいた。そのKちゃんも、実は、中学浪人して、仙台の予備校に通ってその後、地元の高校に入った口でもあった。その後、石巻高校に入学して気づいたのは、40人強のクラスに数名は、浪人した奴がいたという事実である。これは、地方の昭和の受験事情にもよるのだろうが、この東北という地方は、県立の進学校と私立の進学校(県庁所在地にある)とのレベルが格段にあった。それゆえ、公立のナンバー校に落ちた16才の男子は、敢えて、仙台の私立に通うのではなく、浪人してまで地元の進学校に拘泥する風潮が大きかったということでもある。
恐らく、仙台一高や二高を目指していたら、仙台の予備校に通う決意をし、本を前向きに読む習慣など身につかなかったことであったであろう。いい塩梅かは分からぬが、受験勉強がちがちモードではなく、今の勉学の実力を維持していけば、だいたい合格するという目測のもと、読書の世界へ、踏み込んでいったのが、よかったとさえ思われる。これは、喩えていえば、私立の中高一貫校から、受験勉強オンリーで読書や部活など二の次で、早慶、MARCHの大学に入った者、一方、早慶やMARCHの附属校に入り、メチャクチャ読書なりプログラミングなり、自身の興味なる領域、部活や趣味に没頭していった者、その後者が、17才時の私でもあったようだ。
前回まで語ってきたように、16才までの読書の負の遺産、つまり、16才まで標準的高校生の読書量という“負の借金”に、17才の半年の間で、なんとか落とし前をつけた段階で、それは、そう、高校受験が終わったあたりでもあろうか、合格の目星がつき始めた頃でもあろうか、高校合格祝いに、母への要求、そのプレゼンとして思いついたものが、岩波書店の『漱石全集』と小学館の『日本国語大辞典』{全10巻}というものであった。前者は、読書に開眼して、文学事典などと並行して読んでゆく上で、まず、高校1年の段階では、やはり、夏目漱石を読破しなければ、という確信に至ったからでもある。後者は、たまたまテレビを観ていて、その辞典を言語学者金田一春彦氏が、ことばの語彙のニュアンスの違いや魅力をまじえて宣伝していたことが、気にかかかってもいたし、芥川だったか、作家となるには、辞書を読破しなければならないといか、そういう文を目にしてもいたらである。文学史、色々な作家の経歴や作品のことは、相当身についてはいても、やはり、ボキャ貧ならぬ、言葉、漢字といったものにはコンプレックスが私にまとわりついてもいた。この、言語的劣等感とやらを払拭したい、いや、むしろ、言葉を増やしたい、漢字を得意にしたい、いずれ将来は、モノ書きにもといった淡い、漠然とした夢みたいなものが、私を突き動かしてもいた。
そういえば、東京の私立の高校に入学した際、そのお祝いに、高価なオーディオセットを買ってもらった。中学3年生で、錦糸中学校の、塾仲間(勉強ができるだけではない秀才ぞろいの連中)とよくお茶の水へ、遊びに行ったその途中で、オーディオユニオンというアンプやスピーカーなどの専門店に立ち寄り、そのオーディオ世界に足を踏み入れてもいて、この世界の入門者ともなっていたからだ。家もそこそこ裕福でもあったことで、当時100万ちかくもするオーディオセット(スピーカーはJBL、プレーヤーはデンオン、アンプなどはヤマハ)を入学祝いに買ってもらったことは、間逆でもあろう、漱石全集と日本最大の国語辞典である。一方は、ドラ息子の娯楽、他方は、文学青年の武器、この一年で環境もあるが、人間とは随分と変貌するものである。この高価なオーディオセットは、東京の父から搬送されてきても、ほとんど音楽など聴くこともなく、自室に置かれたままであった。この漱石全集を購入したものの、やはり、読みづらく、悲しいから、新潮文庫で読む羽目ともなる。一方、この日本国語大辞典なるものは、昭和時代の置物のように一家に一つ鎮座しておかれた百科事典の如く、自室の書棚に置かれたままで、実際は、広辞苑でもなく、一般的な、標準の国語辞典を相棒とする日々を送ることにもなってゆく。やはり、音楽(ラジカセ)であれ、読書(文庫本)であれ、勉学(新明解国語辞典)であれ、ハンディーなるものが、やはり重宝されるのである。
高校1年の春、石巻駅前にある、高山書店で、漱石全集と日本国語大辞典を注文して、それは、その後、ほとんど、一年前の高校入学祝いに買ってもらった、オーディオセットともに、自室の置物となれ果てれるのである。いわゆる、インテリアのようなものとして。
2025年1月 6日 16:56