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HOME > コラム > ③質か量か?~独学を介した演繹法と帰納法~
コラム
③質か量か?~独学を介した演繹法と帰納法~
世には、『独学のススメ』『独学のオキテ』『独学の技法』『独学の思考法』『独学のすすめ』など、実に様々な“独学”という言葉を冠した、学びのハウツー本が洪水のように氾濫している。この独学なる手法は、ある意味、微小、微量でもいい、ある才なり、能なりを有している者の、“エリート”の学びの王道である。この独学なる道がポピュラーならば、学校も、予備校も、塾も不要であり、生の人間でもある教師も講師も不要ともなろう。AI社会は、独学のユートピアを実現してくれるかどうか、興味深い将来の課題ではある。
そもそも、この独学とは、自身で学びの知を有して、それを育成した連中から発せられた、一種、“学びの宗教”のようなものである。鎌倉仏教を起源とする、自力か他力かに帰着する事例に似てもいる。ご存じなように、禅、題目、念仏というように、大方、庶民の“大成=悟り”は他力、即ち、学びにおける師から、その芽なり、核なりを授かり、それを基盤として、生きる糧を深めてもゆく。そして、悟りを得る。その点、法華経や浄土教は、キリスト教やイスラム教の一神教に近い。漱石の『門』からも自明なように、自力(独学)で、大成・悟り(学力向上)するなど、凡夫には、至難のわざなのだ。
独学で、例えば、伊藤塾やTACなど、法律や会計の専門学校を経ずに、弁護士や公認会計士になる人など、100人に数名程度でもあろう。それは、一般の進学校の生徒が、塾や予備校といったところを経ずに、東大や早慶に合格するのに近い難行でもあろう。開成・麻布・筑駒などの、凡庸なる秀才でさえも、鉄緑会に通う事実が、それを証明してもいよう。通わないのは、真の意味で天才の部類に入る者たちである。学校の教師という師がありながらも、予備校の講師という、別の師につく、二枚腰の非独学的行為でもある。これが、日本における、一般的な、学びの実相である。
学校・予備校また、教師・講師を経ずして、参考書のみ、それも大検をへて東大に合格する者、それは、まさしく、独学の大家、独学の申し子ともいっていい連中である。こうした種族は、『独学のススメ』の筆者にして、史上最高齢のアプリ開発者としてギネスにも載った、今年90歳になる若宮正子のような人物でもあろう。因に、彼女は、筑波大附属、昔の東京教育大附属高校出身である。私の推測である。彼女は、少女時代に、文学少女また、読書少女であったことは、想像に難くない。
中高年以上に最も支持されている、通販のみの『ハルメク』という雑誌、その部数激増の最大要因は、中年以上にターゲットを絞ったスマホの扱い方の説明、解説書にある。また『動画付きでよくわかるスマホをまねるだけ講座』『スマホで困ったときに開く本』『70歳からのスマホの使いこなし術』といった本が近年バカ売れの原動力ともなっていうのが、いわば、スマホの独学力のなさにターゲットを絞ったからだろう。中年以上で、ラインやフェイスブックのアプリの登録など、我が子から教わって、いや、やってもらっている方がほとんどでもあろう。自身でできる50代以上の方は、ある意味で、独学力ありと見た!『ハルメク』最大の成功要因は、独学できないシニアにマーケティングしたことにある!独学が、凡庸なる、それもシニアには、どれほど至難の行為であるかの証明でもある。
私の高校時代の思い出なのだが、『私の東大合格作戦』という2023年版で終わった、ハウツー受験本、合格体験記のことに言及しよう。
この『私の東大合格作戦』などを読んでは、その東大合格者が使用した受験参考書や問題集を購入して、事実、彼らの、勉強計画をも参考に、やってはみたものの、本望の実力は付かなかった思い出がある。このケーズなども、その合格した生徒の母校、その学校のレベル(本来東大合格者が数十名以上)、学校のテキスト(自身の高校とその合格者の高校との難易度の高さ)とそのレベル(自校との開き度)、その本人の知力(標準的県立高校普通科)、その本人の資質(集中力・記憶力など)と学力、その本人の家庭環境、両親の受験への理解度、父親の財力など、そこから予備校・塾への関与度など、その合格者の環境的要因が、その体験記の背後を支えてもいる事実である。だから、そのシリーズの第二版として『無名校からの私の東大合格作戦』なる類の本も私の高校時代に出された。出版社の言い訳、申し開き的、私のような意見へのフォローのような企画でもある。この体験記で登場する、その当時、まだ、できる生徒のみの認知度の通信添削Z会なるものをやっても、それで、実力などついた記憶もさらさらない。まるで、辞書を使ってもいいといった通信(郵送)型模試のような存在でもあった。この、Z会なるエリート集団の通信添削なるものは、独学に適する、独学で伸びる資質の、ある意味秀才以上の鍛錬の場でもあっただろう。私のような凡才以上準秀才以下、いわゆる、学力の1.5流の種族には、無駄なツールでもあるということであった。恥ずかしながら、当時高校生の私は、『灘校生の受験日記』(園池靖){※今でも私の蔵書にあるが現在ネットだと数万円もする!}という本を読んだが、その内容は筆者の学力と灘校のカリキュラムなどで、まったく参考にすらならなかった記憶がある。イスラム教徒が、中華料理のグルメ評論家になるが如き難行だと達観した覚えがある。
この独学とは、自力で、その学びの本質をつかむ、エリートの流儀とも規定できる者のルートである。独学で、その道を極めた者は、良き指導者にはなれぬというのが、私の人生訓でもある。この確信、予備校で、予備講師で、英語が伸びた、志望校に合格できた、その快感的体験は、独学者のものではない、特に、文系なのだが、この学びから教えにスライドする、予備校講師に潜在している<メンタルの定理>は、ほぼ真実に近いものがあるということに否定する者は、業界では皆無でもあろう。
実は、これは、恐らく誰も指摘してはいないようなことだが、中高生、大学生、社会人とほぼ、参考書などのみで、その道を切り拓いた勝者、独学の覇者とは、小学校の低学年で、相当の読書をしてきたことは、このコラムで数カ月前に書いたことである。全ての教科は国語にありという真意である。
この独学で大成する者は、子供時代(小学校低学年、せめて、小学校のうちに)に培われた真の読解力で、英数国理社、そして、大学時代の経済学・法学など、その本質を直観的にとらえる、知的本能が養い育てていたものと推察される。幼児期の母親による絵本などの読み聞かせ、子供時代の読書、これが、中等教育以降の全ての学びの肥やしとなってもいる。そして、その読解力で育った、知的直観力で把握した、その科目・学問の、その本質を種として、核として、演繹法で、場数を踏む、演習につぐ演習をする、その本質が、確信となり、自信ともなり、大成する。この、読書によって養われた、文字・言葉を通して養われた直観なるものが欠如している者は、もやもや感のなか、草むらでロストボールを捜す行為にも似て、ただ時間が過ぎ去り、その本質ともいえる<ボール=その教科・学問の本質>が発見されずに、その教科が苦手科目、時には、嫌いにもなる。この草むらで、<ボール>を探す行為を、凡人向けに、帰納法と呼ぶとしよう。この、直観力に乏しい連中に、雨あられと宿題、演習を課し、できるようにする、いわゆる、量まずありきの千本ノックさながらの、悪しき帰納法の正体である。帰納法には悪しきものと良きものとがあるが、演繹法にはない、あるすれば、誤った核、誤認の本質、ズレた(不正確)な定理から始めるルートをとった演繹法である。
では、この、秀才以上が、読書経験に養われた直観力によってつかまえた、その種・核ともいっていい本質と、準秀才以下の者が、数や量という苦行でつかまえた本質、その本質をつかむプロセスとの違い・関係について次回言及してみたい。
教師・講師は、秀才以上が、直観で習得してしまう、その学びの本質とやらを、準秀才以下の凡夫たちに、面白おかしく、知的にためになったと実感するように教授するためにある。つまり、師とは、その本質への啓蒙ならびに、そこから演繹法による快感・愉楽を伝授するためにあるとも言えよう。
そもそも、この独学とは、自身で学びの知を有して、それを育成した連中から発せられた、一種、“学びの宗教”のようなものである。鎌倉仏教を起源とする、自力か他力かに帰着する事例に似てもいる。ご存じなように、禅、題目、念仏というように、大方、庶民の“大成=悟り”は他力、即ち、学びにおける師から、その芽なり、核なりを授かり、それを基盤として、生きる糧を深めてもゆく。そして、悟りを得る。その点、法華経や浄土教は、キリスト教やイスラム教の一神教に近い。漱石の『門』からも自明なように、自力(独学)で、大成・悟り(学力向上)するなど、凡夫には、至難のわざなのだ。
独学で、例えば、伊藤塾やTACなど、法律や会計の専門学校を経ずに、弁護士や公認会計士になる人など、100人に数名程度でもあろう。それは、一般の進学校の生徒が、塾や予備校といったところを経ずに、東大や早慶に合格するのに近い難行でもあろう。開成・麻布・筑駒などの、凡庸なる秀才でさえも、鉄緑会に通う事実が、それを証明してもいよう。通わないのは、真の意味で天才の部類に入る者たちである。学校の教師という師がありながらも、予備校の講師という、別の師につく、二枚腰の非独学的行為でもある。これが、日本における、一般的な、学びの実相である。
学校・予備校また、教師・講師を経ずして、参考書のみ、それも大検をへて東大に合格する者、それは、まさしく、独学の大家、独学の申し子ともいっていい連中である。こうした種族は、『独学のススメ』の筆者にして、史上最高齢のアプリ開発者としてギネスにも載った、今年90歳になる若宮正子のような人物でもあろう。因に、彼女は、筑波大附属、昔の東京教育大附属高校出身である。私の推測である。彼女は、少女時代に、文学少女また、読書少女であったことは、想像に難くない。
中高年以上に最も支持されている、通販のみの『ハルメク』という雑誌、その部数激増の最大要因は、中年以上にターゲットを絞ったスマホの扱い方の説明、解説書にある。また『動画付きでよくわかるスマホをまねるだけ講座』『スマホで困ったときに開く本』『70歳からのスマホの使いこなし術』といった本が近年バカ売れの原動力ともなっていうのが、いわば、スマホの独学力のなさにターゲットを絞ったからだろう。中年以上で、ラインやフェイスブックのアプリの登録など、我が子から教わって、いや、やってもらっている方がほとんどでもあろう。自身でできる50代以上の方は、ある意味で、独学力ありと見た!『ハルメク』最大の成功要因は、独学できないシニアにマーケティングしたことにある!独学が、凡庸なる、それもシニアには、どれほど至難の行為であるかの証明でもある。
私の高校時代の思い出なのだが、『私の東大合格作戦』という2023年版で終わった、ハウツー受験本、合格体験記のことに言及しよう。
この『私の東大合格作戦』などを読んでは、その東大合格者が使用した受験参考書や問題集を購入して、事実、彼らの、勉強計画をも参考に、やってはみたものの、本望の実力は付かなかった思い出がある。このケーズなども、その合格した生徒の母校、その学校のレベル(本来東大合格者が数十名以上)、学校のテキスト(自身の高校とその合格者の高校との難易度の高さ)とそのレベル(自校との開き度)、その本人の知力(標準的県立高校普通科)、その本人の資質(集中力・記憶力など)と学力、その本人の家庭環境、両親の受験への理解度、父親の財力など、そこから予備校・塾への関与度など、その合格者の環境的要因が、その体験記の背後を支えてもいる事実である。だから、そのシリーズの第二版として『無名校からの私の東大合格作戦』なる類の本も私の高校時代に出された。出版社の言い訳、申し開き的、私のような意見へのフォローのような企画でもある。この体験記で登場する、その当時、まだ、できる生徒のみの認知度の通信添削Z会なるものをやっても、それで、実力などついた記憶もさらさらない。まるで、辞書を使ってもいいといった通信(郵送)型模試のような存在でもあった。この、Z会なるエリート集団の通信添削なるものは、独学に適する、独学で伸びる資質の、ある意味秀才以上の鍛錬の場でもあっただろう。私のような凡才以上準秀才以下、いわゆる、学力の1.5流の種族には、無駄なツールでもあるということであった。恥ずかしながら、当時高校生の私は、『灘校生の受験日記』(園池靖){※今でも私の蔵書にあるが現在ネットだと数万円もする!}という本を読んだが、その内容は筆者の学力と灘校のカリキュラムなどで、まったく参考にすらならなかった記憶がある。イスラム教徒が、中華料理のグルメ評論家になるが如き難行だと達観した覚えがある。
この独学とは、自力で、その学びの本質をつかむ、エリートの流儀とも規定できる者のルートである。独学で、その道を極めた者は、良き指導者にはなれぬというのが、私の人生訓でもある。この確信、予備校で、予備講師で、英語が伸びた、志望校に合格できた、その快感的体験は、独学者のものではない、特に、文系なのだが、この学びから教えにスライドする、予備校講師に潜在している<メンタルの定理>は、ほぼ真実に近いものがあるということに否定する者は、業界では皆無でもあろう。
実は、これは、恐らく誰も指摘してはいないようなことだが、中高生、大学生、社会人とほぼ、参考書などのみで、その道を切り拓いた勝者、独学の覇者とは、小学校の低学年で、相当の読書をしてきたことは、このコラムで数カ月前に書いたことである。全ての教科は国語にありという真意である。
この独学で大成する者は、子供時代(小学校低学年、せめて、小学校のうちに)に培われた真の読解力で、英数国理社、そして、大学時代の経済学・法学など、その本質を直観的にとらえる、知的本能が養い育てていたものと推察される。幼児期の母親による絵本などの読み聞かせ、子供時代の読書、これが、中等教育以降の全ての学びの肥やしとなってもいる。そして、その読解力で育った、知的直観力で把握した、その科目・学問の、その本質を種として、核として、演繹法で、場数を踏む、演習につぐ演習をする、その本質が、確信となり、自信ともなり、大成する。この、読書によって養われた、文字・言葉を通して養われた直観なるものが欠如している者は、もやもや感のなか、草むらでロストボールを捜す行為にも似て、ただ時間が過ぎ去り、その本質ともいえる<ボール=その教科・学問の本質>が発見されずに、その教科が苦手科目、時には、嫌いにもなる。この草むらで、<ボール>を探す行為を、凡人向けに、帰納法と呼ぶとしよう。この、直観力に乏しい連中に、雨あられと宿題、演習を課し、できるようにする、いわゆる、量まずありきの千本ノックさながらの、悪しき帰納法の正体である。帰納法には悪しきものと良きものとがあるが、演繹法にはない、あるすれば、誤った核、誤認の本質、ズレた(不正確)な定理から始めるルートをとった演繹法である。
では、この、秀才以上が、読書経験に養われた直観力によってつかまえた、その種・核ともいっていい本質と、準秀才以下の者が、数や量という苦行でつかまえた本質、その本質をつかむプロセスとの違い・関係について次回言及してみたい。
教師・講師は、秀才以上が、直観で習得してしまう、その学びの本質とやらを、準秀才以下の凡夫たちに、面白おかしく、知的にためになったと実感するように教授するためにある。つまり、師とは、その本質への啓蒙ならびに、そこから演繹法による快感・愉楽を伝授するためにあるとも言えよう。
2025年3月10日 16:36