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音読というもの~2タイプ~

 今や中学生・高校生に流行りの音読なるもの、その効果、即ち、話せる英語が身に付くという<原因と結果>の因果関係の間にブラックボックスが存在していることを語ってみたいと思うのです。
 音読、それは、社会人に支持されているシャドーイングなるものでもいい、その音読という学習スタイルが、2つの部類に分けられるという事実であります。
 まず、音読には、江戸時代から明治くらいにかけて、行われていた、論語を中心とする漢籍の素養を身に付けるための部類に入るものと、アンラーニングの一環で行われるツールとしてのものの2種類があるということです。
 まず、音読という今や学校や塾・予備校で奨励されているものは、素読の範疇に入るものです。誤解を覚悟で言わせてもらえば、意味内容は4分の1から3分の1くらいしか了解さえしていない文章なりを、ただ座禅の如くに唱和し、その生徒の精神年齢の上昇、人生経験の豊富さ、学問上の知識の向上という時間の推移に比例して、こうした‘本丸である英文’そのものの外部からじわりじわりと、内容が理解できるように、中途半端な文法知識と単語力を武器に推し進めて行こうとするものです。江戸時代の庶民の寺子屋、武士の藩校の元服前の子弟に行っていた手法の域を出るものではありません。これは、以前あるラジオ番組で評論家竹村健一に英文学者渡部昇一が語っていたことですが、「学校で英語を習っていても、その後ものになる(仕事で自在に使えるという意味)のは、ほんの一握り、ちょうど江戸時代の寺子屋や藩校で漢籍を習って、その後ものになるのは、少数の、今でいうIQ130とかの人間だけだ、英語とて漢文と同じ勉強上の顔を持っている、江戸時代の漢文同様に今の時代、英語をものにできる人間など少数だ」というものです。語学上の理想主義者の口を黙らせる真実としての<寸鉄>の言葉です。
 寺子屋で漢籍など習っていた江戸や大坂の庶民の子供の10人に数名程度であろう、その知識なりがその後、人生・商売上でものになっていたのは。また、藩校の武士の子弟とて同じであったであろう。よく「音読、音読」などとわめき散らしている教師・講師は、自身がそれで英語がものになった手法を、自身よりIQが低い生徒に実践せよと指導しても、9割以上は、実行不能の難行であり、また、実行したとして、効果薄の行為ですらあると断言できるのです。TハイスクールのI講師など、自著の中で、「音読を通じて5回、10回やったらもう全部、頭ん中に入ってるから。」と力説しています。高校2、3年生に中学レベルの英文を音読せよというなら、話しは別です。恐らくそのアドヴァイスも信憑性はあるでしょう。しかし、オバマの演説や京大の英語、早稲田や慶應の入試問題英文でもいい、それを高校3年生に、文法で完璧に理解し、その英文の英単語の語義のニュアンスも理解した上でなければ、その音読とは般若心経を唱える行為に等しいとさえ言えるのです。日常英会話程度の中学レベル英文の音読を通して、英検準1級や難関大学の英文を読み込む力など到底養うことは、できないのです。世の<音読教>支持者や布教者は、高尾山や富士山登山を何度も場数を踏めば、モンブランやエベレストに登れますよとうそぶいているイカサマアルピニストに思えてならないのです。
 しかし、中学はもちろん高校にまでなって、英文の難解さを克服する、真の、本物の英文法など教授せず、まるで、司馬遼太郎氏の弁を引用するなら、「薄っぺらい鉄板で、鉄砲の弾が貫通するほどの豆タンクならぬ戦車で、ソ連軍に向かっていった日本軍が、ノモンハンで惨敗したのは当然だ」的文脈で言わせてもらえば、I講師の音読、いや、巷の音読とは、中学レベルの英文(旧日本軍の戦車)を音読(戦闘訓練)でマスターし、それを武器に大学入試の英文(ソ連軍の戦車)に挑めといっているようなものです。こうした無責任極まる音読が中等教育で行われているのです。15歳に中学校の教科書を音読させても、大方は身に付きません。高校生に中学の教科書を音読させれば、その半数前後はものになるでしょう。高校生に高校の教科書を音読させても、それレベルの英語を、17歳で自在に使いおおせることはできません。それは、高校生レベル、いや大学入試の英文を解析する英文法を完璧に理路整然と説明解説されていないからです。しかし、彼らは、中学レベルなら、文法的に易しい、よって、音読効果はてきめんに表れてきます。今の高校生には、中学レベルの英文を音読させ、大学入試レベルの英語は、一流教師、カリスマ講師が、授業、ネットで授業する、そして、高等英語を読み書きさせる、そして、大学生になったら、高校時代の教科書を音読する、これが、正しい音読の学習ルートでもあります。
 では、私が、教え子に薦めている音読は、以上の素読系ものではありません。素読のように、「たくさんやっていればそのうちできるようになるだろう(伊藤和夫の発言)」的流儀で高校生に音読をさせてもテンションは上がりません。そのうちがどれほど先のことなのか、雲をつかむように心もとない。やる気すら湧きません。実行する生徒は、超素直か、超おめでたい気質の奴です。周囲が大卒ばかりの店長が目に付くサービス業(居酒屋ワタミ・ユニクロ・ヨーカドーなど)系大企業で高卒の新人に「一生懸命やっていれば、いつか店長になれるから」と諭してもやる気が湧かないのと同じです。彼らは、分かっているのです。見えないガラスの天井が学歴で、学卒が白鳥の一かきで進むスピードで出世し、自身がアヒルの一かきでしか進まない出世のスピードの違いの現実を。
 私が、高校生に推奨しているのは、東大や京大の二次の難解な英語、それを一点の曇りもなく文法的・構文的、時に、英語学的視点から解説し、弟、後輩に授業解説できる域にまで持ち上げるのです。その意味内容・英文のシンタックスを完璧に意識して読んでいた行為を<学び忘れる>ための行為、これこそ、<アンラーニング>であります。そのように、復習の一環として音読を実践しなさいと指導しているのです。
 意識して読み込んでいた難解な英文を、無意識の閾に落とし込んで行くプロセスこそ、アンラーニングであります。これを登山ルートに譬えます。巷の音読とは、一種の根性論で、中学レベルに毛が生えた程度の英文法の知識で、「内容半分強の理解で十分、あとは、音読だ、と、君たちは、高尾山に30回、富士山に10回登頂したのだから、モンブランやエベレストなんてへっちゃらだ」と喧伝豪語していのがI講師なのです。彼の書を読むと、その無責任、いや、英語学習上の薄っぺらな見識・無責任さが伝わってもきます。
 今般の英語の民間試験の大義名分、即ち、<読み・書き・話し・聞く>の4拍子をテストする方針に、いち早く賛同したのが、TハイスクールのI講師や、特にY講師であります。Y講師などは、資格試験マニアというほど、数多くの英語系はもちろん、様々な経歴の持ち主です。しかし、彼に、アカデミック英語の指導はもちろん、哲学・思想・文学系の難解な英文を高校生に面白おかしく、理路整然と、彼らの人生経験・学問知識のなさを考慮し、指導できるかは疑問だと思っています。ハリウッド映画など、自身が英語がめちゃくちゃ好きで、英語漬けを厭わない気質の英語講師に、同じように、同じスタイルで英語を身に付けよといわれても、中学生程度の日常英会話なら話しは別です。特に、理系男子{東工大や早稲田に理工志望の生徒}はしらけます、ドン引きします、「何、そんなに英語に熱くなってるの?」と冷ややかな目線を送る生徒も少ないと言われています。
 800メートル走者は、1500メートルを想定してトレーニングを積むと言われています。マラソンの強者は、40キロの倍、80キロ近くを、高地で走り込む練習をすると言われています。高校生相手に中学生レベルの英語なら素読系の音読もよしとしましょう。しかし、高校レベルの英語に素読系の音読は限界があるのです。まず、文法などを経て完璧に意味がわかり、和訳もでき、そして、他者にその英文を説明できる域にまでいって、その高見から、降りて来るためにアンラーニング{意識的行為<日本人の脳>を無意識的行為<ネイティブの脳>へ落とし込む学習行為}をしなければ、真の使える英語など不可能で、身に付きはしないものです。この点では、同時通訳の神様とも言われた国弘正雄氏も『英語の話しかた』(たちばな出版)の中で、音読は大切だ、しかし、私が以上力説した点を抜きにしては、駄目であるとも強調されています。

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