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理系と文系、どうして分かれるの?①

 先日、NHKの『トライアングル』(2019年10月6日)という番組を興味深く見ました。題名は、「理系と文系どっち? 尾崎世界観と都立西高生30人が考えた!」というものです。

 まず、舞台が都立西高という東大に20名以上毎年進学する有名校を前提に番組が成り立っているということです。標準的公立高校ではないところがミソなのです。

 

①<世界では、理系・文系なんて分かれていない!?>

 

 世界では、中等教育から高等教育に至るまで、文系、理系といった括りで教師は勉強を教えない、また、生徒も文系か理系かといった意識で学んではいない、ここにも日本の常識は世界の非常識という標語が当てはまる事実が隠されていないでしょうか?

 

 ②<文系は数学苦手派が、理系は国語嫌悪派が、それぞれ進むコース!?>

 

 この文系・理系と進路が分かれる一番の要因は、はっきり言えば、数学という科目に落ちこぼれた生徒の進む先を文系と命名しているに過ぎず、国語苦手、社会科目興味なし、こうした生徒の進む先が、特に男子に多い、消極的(私立)理系とも言えるでしょう。

 つまり、大学進学という関門に必要とされる科目の得意・苦手、また、関心あり・関心なし、はたまた、好き・嫌い、こうした生徒の意識がどうも、理系・文系という特異な教育風土を際立たせてもいる感が否めません。

 

 ③<食生活の好き・嫌い同様に、科目の得意・苦手は、学校・教師のせい!?>

 

 食生活において、肉系(理系)と野菜系(文系)を両方均等に摂取するというのが、管理栄養士的観点から、当然、健康上の理想形でもありますが、世の中、好みなど、生来の気質もあるでしょう、食生活に偏りが生じるのが“人間の(さが)”でもあります。科目とて同じであります。親の子育てや教育環境が左右するように、その生徒の学習環境や学校・教師の授業・教え方、教材などなどに大いに左右されるのが<英数国理社>といった科目の得意・不得意・好き・嫌いといった領域です。勿論、生まれながらにして、音楽や絵画の生来の才能の如く、数学やその他の科目が独自で開花する生徒もいるでしょう。数学オリンピックのメダリストなどです。しかし、半数以上は、学習環境(学校・塾・教師・講師)がものを言う領域です。

 

 この段階(中学から高校への段階)で、すでに数学が得意苦手といった現象は、標準的な生徒に起こる当然の帰結的姿でありましょう。食べ物の好き・嫌いと同義であります。

 この西高の生徒の中に数学が苦手で、文系に進んだ生徒が出てきます。しかし、ほとんどの生徒は、得意・不得意関係なく、みな優等生的に、理系文系などなく、「数学は大切だ」「数学は必要だ」と本心なのか、狡猾な建前論なのかはわかりませんが、世の教育関係者が喜ぶような発言をしていました。

 

 ④<理系と文系に高校生で分かれるのは、科目間離婚のようなもの!>

 

 以前、「数学随想」(本コラム)でも語ったことですが、高校生になって理系文系に分かれる日本独自の高校段階での現象を、科目間離婚に譬えました。国公立を除き、私立に関して申し上げれば、理系に行く生徒は、離婚して父子家庭になる、文系を選ぶ生徒は、離婚して母子家庭になるようなものです。そして、高校生でも、超一流国公立(東大・一橋・東工大)を目指す生徒は、両親が幸福なるかな!家庭内に存在し、自然な形(欧米型)で大学生になるケース、標準的国公立(横国・千葉大・群馬大)を目指す生徒は、家庭内離婚をしている生徒で、しぶしぶ数学をやったり、仕方なく国語をやっている生徒でもあります。国公立系の高校生は、ある意味、恵まれているのです。

 日本では、国公立大学受験システム上、理系でも、国語や社会を、文系でも、数学や理科を、本来なら、リベラルアーツの観点から必要なのは、言わずもがなでありますが、しかし、理想と現実は、そうではない。そうした、科目の好き・嫌いを、受験マーケティング的に自己分析して生徒自ら受験するのが実態であります。更に、それぞれの国立私立を問わず、様々な組み合わせの受験が可能となっているセンター試験システムも、日本の高校生を理系文系とはっきりを際立たせている大きな原因ともなっているのでしょう。

 

 ⑤<数学が得意で、大切だと吹聴する者の背後には、国語という影の強みがあってこそ!>

 

 カリスマ国語(現代文)講師の林修氏などは、一番大切な科目は、自身が教えている国語という科目を差し置いて、数学だと断言しています。東大文Ⅰに現役合格し、東進ハイスクールに最初数学講師として採用された、その後、理系数学講師には、太刀打ちできないと悟り、現代文という科目に鞍替えした経歴を考慮すれば、数学を筆頭に挙げることは、理系数学講師に、長期戦では(東進で講師としてやってゆくキャリアとして)自身がかなわない、文系数学エリート者の限界とそこから派生するコンプレックスの裏返しとしての“数学リスペクト”の発言に投影したものと思えてなりません。

話しがビジネス関係に断線しますが、『統計学が最強の学問である』(西内啓)という本が近年(2013年)ベストセラーになりましたが、それに捩って言わせてもらえば、「数学が最強の科目である」{※中学受験では算数、大学受験でも文系派でも数学が武器になる}とも断言できそうです。高校生に該当するとも言えなくもない真実でありましょう。数学が高等教育への関門(受験)で最強の武器となるからでもあります。

 

数学がなぜ大切か、必要かを、分かりやすく、理路整然と語った人物をテレビなどで観たこともありませんし、世の高校生が納得するほど説明できる講師の書物にお目にかかったこともありません。それは、「宗教が何故人間には必要なのか」といった命題と同じくらい難しいテーマでもあるからです。タバコに関しての格言「わかっちゃいるけどやめられない」の逆、即ち、数学に関しては「わかっちゃいるけどできない、ちんぷんかんぷん」というのが世の一般高校生の本音といったところでしょうか?

数学が嫌い・苦手な高校生に、その大切さを納得させることは、二―トや引きこもりの人間に、働く意義を説明し、社会復帰させるのと同じくらい難儀であります。「音楽が芸術の王者」という名言(ショウペンハウアーだったか?)の援用ではありませんが、「数学が科目の王様」とも言っていいくらいです。抽象度において、音楽と数学が別格的存在でもあるからです。確かにそうです。現今の日本の大学は、国語でもなく、英語でもなく、数学がめちゃくちゃできれば、ほぼ、全ての一流大学の理系はもちろん、文系(早稲田の政経や慶應の経済でも)に至るまで、進学できます。数学は、“受験の魔法の杖”のようなものです。譬えれば、野球のチームの4番打者が数学でもあるからです。得点の稼ぎ頭であるからです。それは、3番打者が英語であり、5番打者が国語であるゆえ、4番打者のみで勝利(合格)できる保証はないということわりを付け加えてのことです。

 

ある意味、国家というものの文化は、国語が、国家の文明という経済力の命運は、数学が担っています。モノづくり大国でもある日本の大企業の縁の下力持ち的科目は、物理や化学であり、その下支えは数学であるからです。しかし、この点、林修氏は、自身の恵まれた少年時代の恩恵を忘れています。幼年時代、そして小学校時代、祖父の日本文学大全集を読破したという読書体験、つまり幼少期に培われた国語力があったればこそ、私立の名門東海中学に、小学校6年から受験勉強を始め{※これは凡庸な小学生では不可能なことです!}、合格でき、その超進学校で、数学が得意科目となった影の経歴、国語の恩恵を差し置いて、中等教育における数学第一主義という考えに染まっていった模様だと考えられます。この点、数学者藤原正彦氏の常日頃の名言、「小学生で大切なのは、一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数、英語、パソコン、そんなのどうでもいい」これに該当する典型的人物は、まさしく、林修氏でありましょう。しかし、「親の有難さ子知らず」ではありませんが、その初等教育の国語の恩恵を忘れ、数学を一位に上げる料簡は、小学生時代にアメリカ生活を送り、自在に英語が操れる中学生が、日本の私立公立中学校で、純ジャパの仲間に、「英文法や単語の暗記なんか馬鹿らしい、不要だよ、外国人と会話していれば英語なんてできるようになるよ」というようないい加減なアドヴァイスを吹聴するに等しい、牽強付会的発言に思えてならないのです。

 

 最近では、教育に関して鋭く、シビアな発言をしている佐藤優氏も、数学の大切さを力説しています。同感するところ大でありますが、林修氏同様に、世の高校生から大学生に至る、真のエリート生対象に向けた、「数学は大切だ!」論に思えてならなのです。数学落ちこぼれ族には、「何言ってんの、このおやじ?」と愚痴りたくなるエリート論と言っておきましょう。

 

 ⑥<世の数学落ちこぼれ文系族よ!文系族から芸術族へと飛躍せよ!>

 

 『世界のエリートはなぜ「美意識」と鍛えるのか?経営における「アート」と「サイエンス」』(山口周)という本が2年ほど前(2017年)にベストセラーになりました。この本の主旨を、理系・文系の議論レベルに引き下げて申しあげれば、大学受験という進路・関門においては、確かに、生徒自身も意識せざるをえないでしょうが、実は、私の生徒達にも語っていることですが、勉強上は、理系・文系に進むことも、仕方がない、やむをえないものです。はっきり断言できます。<感性・直観>{文系的資質}と<理性・論理>{理系的資質}という括りで、文系生徒には、究極の感性をブラッシュアップせよ、そして、大学生になったら、余裕のある限り数学ⅠAや数学ⅡBを統計学やプログラミングの観点から学び直すように、そして、理系の生徒は、できるだけ感性を磨いたり、直観というひらめきを大切にするように、ですから、いい音楽を聞いたり、絵画を見るように説いています。

 

 東京芸大生は、音楽にしろ、絵画にしろ、感性や直観は天才的なものを持ち合わせていますが、数学なんぞは、センター試験の半分も解けない、つまり苦手なことでしょう。しかし、彼ら、特に芸大(例:箭内道彦)や多摩美(例:佐藤可士和)のグラフィックデザイン科に進んだ学生などは、広告代理店や経営コンサル系会社などから引く手あまただと聞いています。彼らの美的感性・鋭い直観・思いもよらないひらめきなどが、高く評価されているからです。ブランディング{※現代はマーケティングよりブランディングが必要}の必須の要件としてデザインという要素が、差別化の絶対要件でもあるからです。マツダやシチズン(業界の4番手、2番手)が、トヨタやセイコー(業界の雄)に近年で負けない領域は、このデザイン性にあると言っても過言ではありません。製品の性能・機能(理系)に、グローバル化の今日、製品の“美”(文系)が勝っている、支持されている証拠です。ここにこそ、世のエリートが<美意識>を鍛える淵源があるのです。

 

 こてこての文系、受験の“負け組”の高校生なら、大学生になって、本物の音楽や絵画ととことん向き合い、芸大生並みの感性を身に付けよと言いたいのです。超理想論ですが、自身は陶器など焼かなかった千利休、自身は絵画など描く技量はなかった岡倉天心、彼らのように、美的感覚を大学生時代に磨きに磨けと滔々と語るのです。現代っ子には、譬えとして少々難しければ、秋元康のようなプロデュース力を身につけよとアドヴァイスするわけです。時代の空気や匂いをかぎ分ける感性のようなものです。これには、いい音楽・素晴らしい絵画{※温故知新・不易流行・Oldies but Goodies:私の好きな言葉です}などは日常生活に必須です。これは、デジタルでは磨けません。アナログの世界なのです。生のライブや美術館に足しげく通うようにも語っています。バブル以前の早稲田の文系学生なんぞは、授業はそっちのけで、演劇や自身のサークル、音楽活動など、感性をとことん磨いていました。それに対して、今の早稲田の学生は慶應生以上に出席率が高く、高校の延長線上にあるかの如く、全ての学部で、実用英語(TOFLEやTOEIC)の単位習得カリキュラムが必須になっていると言います。大学の場が、学問の場はなく、お勉強の教室に格下げになった感が否めません。文化構想なっていう学部があります。文化に寄与するかの如き名称の学部がありますが、優れた文化なんぞは、教えて育つものではない。ノーベル賞級の学者が教育カリキュラムから生まれたものではなく、その人の才能・資質に偶然的環境が、絶妙にミックスした賜物であります。窯から出した後で、偶然、名器が生まれる楽茶碗のようなものです。某大学の文芸学部から、多数の芥川賞作家や直木賞受賞者が生み出せないのと同義であります。(つづく)


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