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理系と文系、どうして分かれるの?➁

①<理系(父親)と文系(母親)の父母への比喩>
 
 高校生の段階で、私立文系に進む生徒は、母子家庭に私立理系に進む生徒は、父子家庭に擬えてみましたが、その後彼らは、大学生・社会人ともなり、早い人で、大学で数学の大切さ(父親の良さ・父親にも一理)に気づき、再度学び直そうと思う女子もいれば、理工系の男子生徒で、文学や芸術の素晴らしさ(母親の良さ・母親にも一理)に気づき、人文科学系の講座など率先して履修する男子もいることは、現在の日本では、極少数派であるのは、離婚した後、別居している父や母のもとへ足しげく会いに行く気持ちにはならない子どもと同じであります。思春期に、両親の不和がもとで父母のどちらかを選択せざるおえなくなったトラウマのようなものが尾を引いて、もう、父(自然科学)や母(人文科学)のもとへと会いに行くメンタルではなくなってしまっているからでしょう。
 
②<大学生になって、再度理系科目や文系科目に意識が向いて欲しい日本の学生>
 
 そうなのです。高校時代に、心理的・生理的に、あるいは能力的限界やもしれませんが、毛嫌いした数学や国語は、もう、再度学ぼうなどいう意欲や意志が起きないというのが、一般論でもあり、一般的通説、また人間の正直な<(さが)>でもあるからです。
 
   山口周 :慶應の哲学科から美術史学科修士へ、そして電通やボストンコンサルティングなどを経て、現在経営コンサルタン       トに至る…Aタイプ
   田中耕一:エンジニアでスタートして、今や二度目のノーベル賞を受賞しかねない域にまでなった化学者…Bタイプ
 
 しかし、もう二度と理系などにオサラバした文系学生なら、いっそのこと、徹底的に、むしろ人文科学を突き詰めて、哲学や宗教や芸術を、興味・関心の域から博識・知性へと雄飛させるひた向きさが必要(Aタイプ)です。その一方で、理系学生で、文系学問に全く興味がないならば、とことんデジタルの領域を究めればいい。真の武器(社会で食べていけるだけのツール)となるプログラミングを習得するとか、技術工学、あるいは電子工学専攻の学生なら、バイオケミカル系の分野にもつぶしが付く人間(Bタイプ)をめざすとか、その逆もありですが、理系のすそ野を広げてゆくのも一つの手であります。富士フイルムが、全く今では、化粧品・医薬品の会社に生まれ変わった改革を、自身、個人人レベルで実践すること、“MY REVOLUTION”をすることです。
 
   猪子寿之:日本の絵画芸術・文化をデジタルアートとして飛躍させた…Cタイプ
   福岡伸一:生物学者でありながら、フェルメールなどの絵画周辺などに造詣が深い…Dタイプ

 猪子氏や福岡氏は、エリートの理系者でサイエンティストでありながら、決して文化・芸術を忘れず、むしろ、その後の人生の仕事の一部、生業とすらしている人たちであります。
 
 しかし、理想を言わせてもらうならば、文系に進んだ学生でも、理系の領域に自己研鑽し、プログラミングを玄人裸足なみに身に付けて、IT系のベンチャー企業を立ち上げる{SFCに比較的多い}とか、経済で必要な<数学>{数ⅠAから数ⅡBまで}を、再度、スマホなどのアプリの一つ“スタディー・サプリ”で学び直すとかのひた向きさが必要です。電車内でスマホに向き合いゲームばかりしている学生や社会人になどなって欲しくないものです。それに対して、理系に進んだ学生も文学や芸術を、まず趣味の領域から始め、生涯の趣味(人前で蘊蓄を披瀝できる域)とも言える領域にまで育つような<種>を、大学の段階で蒔いておくのも一つの手です。
 
 以上の事柄を、集約すれば、こうです。
 
 文系人間であっても、理系分野をリスペクトし、理系人間であっても、文系分野を不要・無駄などと蔑まない、こうした心の持ちよう、心的態度を、教養と呼びたいのです。
 私の好きな『宮本武蔵』(吉川英治)に出てくる名言であります。
 
 「剣も鍬なり、鍬も剣なり。土にいて乱を忘れず、乱にいて土を忘れず」
 
 父親の破産で、尋常小学校を中退し、丁稚奉公に出された松下幸之助が、終生学びの精神を忘れなかった態度{※「直心是道場」とも申せましょう}を持ち続けていた、そういう人が、ある意味で、<教養ある人>ともいえるのではないでしょうか?彼の言葉、いや、箴言が、“経営の論語”たりえている所以でもあります。
 英文学者渡部昇一の最晩年の書『学問こそが教養である』(育鵬舎)、その題名がそのことを如実に表していないでしょうか?
 
 教養とは、大学で、「~教養学科」とか「~リベラルアーツ学科」などに進んで、受動的に学ぶものではありません。それは、小説の書き方を、「~大学文学部文芸学科」などで学ぶものではないのと、全く同じであります。文学部なり、経済学部なり、理工学部なりに在籍し、その専門性を軸足に、バスケットボールの戦術、所謂、“ピボット”的学びを実践すべきなのです。真摯に、率先して自身の不足する、また未知なる知的領域を、フリー(リベラル)に、能動的に学び続けてゆく精神(アート)、それこそ、教養だと思うのですが、どうでしょうか?(つづく)

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