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ゆとり教育とアクティブ・ラーニング

 ゆとり教育アクティブ・ラーニングなるものが、本来、同じ病根から派生した、一見時世にマッチングしていて、しかも、グローバル化にリンクするかに見えて、実は、国力・民力を劣化、劣悪へと導く、文科省による愚策である点を語ってみたい思います。 

 

 「今の‘教育改革’とは、教育問題ではなく労働問題です」(三宅晶子)

 

 そもそも、土曜日休日の週休二日制なるものは、その土曜日を休みにして、生徒に自主的に、問題意識を持ち、何らかの課題に前向きに取り組んで欲しいといった理想的コンセプトで、ゆとり教育が始まったことは、有名ですが、実は、その影の理由なるものが、信憑性はともかくとして、次の様なことが背景にあったと小耳にはさんだ覚えがあります。

 公務員でありながら、市役所や県庁に勤務する人たちが、土曜日も休め、家族サービスもできるのに、同じ公務員たる教師は、どうして日曜日しか休みがないのかといった、主に日教組の教員が、文部省に詰め寄り、当局も、困り果てた。それを前面に出して主張でもしたら、「教師たる者、なんていう事を言うのか!」といった、まだ‘教師=聖職、若干尊敬される職種’という幻想を抱く国民からは総反発を食らうであろう、「金八先生を見習え!」といった、理想像に幻惑された大衆からは、批判の矢面に立たされる。そこで、文科省は、一計を案じてか、従来型の詰め込み教育を否定する、また、アメリカで80年代に採用され、それも黄昏時期にさしかかった失敗策と分かりきっていたゆとり教育が、ちょうど、その教師の週休二日制の批判をかわす大義の御旗として掲げられたという経緯、嘘かまことか、耳にした覚えがある。そこに、寺脇研という、その後ミスター文部省として有名になる、ゆとり教育のスポークスマンが登場してくる。

 彼は、鹿児島ラサール高校を卒業して、東大法学部を経て、キャリア組として文部省に入省した人物ですが、昔、このようなことを語っていた。

 

 「私の父親は、教育熱心で、私をラサールにいれた。そこでは、それ以前でもだが、勉強、勉強の毎日で、こんなんでは、日本の教育はいけない、この猛勉強、受験勉強、その個性まで殺すような、この日本の教育制度を変えなければ、と決意し、文部省に入ったのです」

 

 この発言は、まさしく、秀吉が天下を取るや、刀狩令、そして兵農分離を行った、下剋上、戦乱の世はいらないといった“善意”から行った政策に似ていなくもないのです。「俺が味わった、猛勉強戦争、受験地獄、こういったお勉強の‘戦乱’から解放させてあげたい」といった“志”を抱きながら、文部省勤務をしていた、ちょうど時、その人材に省内で白羽の矢が当たったわけである。そして表舞台に登場する。その後、彼の“活躍ぶり”は有名である。しかし、そのゆとり教育の旗色が悪くなり、その政策を政府も引っ込めざるを得なくなると、彼は、文科省を、“責任と取ってか、取らされたか”去ることになる。

 このゆとり教育政策失敗の一番の原因は、“理念は崇高、現場はあたふた”、これに尽きるのです。つまり、文科省の眼鏡にかなう優秀な教師が10人のうちせいぜい1~2人くらいしか存在しない教育現場に、優秀な教師が8~9人いるという前提の下で始めたことが、ボタンの掛け違いでもあり、主たる失敗の原因でもあった。まるで、出来のいい父親が、出来の悪い我が息子を、「どうして、こんなこともできないんだ!」と叱りつける光景の拡大ヴァージョンといったところかでしょうか。自分の知性と、自分の歩んできたエリートコースとの齟齬から生まれてきたユートピア思想を寺脇氏が抱いていたとしか思われません。戦前、裕福な旧制高校の学生に限って、ある“正義感”から共産主義思想に染まったメンタルの“お勉強バージョン”とそっくりなのです。実際、彼は、次のようにも断言していた。「ゆとり教育が実施されたら、みなが100点をとれるようになる」と{『尊敬されない教師』P205から}2020年以降の小学校の英語教育も同じ失敗が予想されるのです。ですから、先日、ニュースで、ある小学校に実験的に、英語を喋るAI搭載ロボットを導入する方針を知りましたが、それなんぞも、この実態を知ってか、文科省の予防策とさえ意地悪い見方をしてしまうのです。政府は、現場教師を助ける、補助するという名目で、実は、現場教師を、教室内で無用の長物とする愚策を推進しているのです。街中のタクシードライバーがこの先、AĪ運転の自動車で、失業へと追いやる未来予想図と同じものです。できの悪い、英語がしゃべれない教師は、教室内から追い出せ的な方針とも見方を変えると言えるかもしれません。

 <理想の方針と現実の現場>、その見通しの甘さ、無責任さ、これが、ゆとり教育のそもそもの間違いです。また、この、きれいな“ゆとり教育”の成功の一番のカギは、文化資本・知識資本・経済(金銭的)資本という要素、その分母が豊富にあるということに尽きるのです。そうした生徒のみが、可能なのです。例えば、慶應の附属校・開成や灘など、また、せいぜい、県立のナンバー校{翠嵐・浦和・千葉高など}、そうした知的・文化的資本があったればこそ成功するものなのです。そうした条件を満たしていない中等教育の学校、特に標準的な公立中学・公立高校では、そもそも無理なのです。これは、超現実主義の視点で申しているまでです。批判は覚悟の上です。

 では、アクティブ・ラーニングはどうなのでしょうか?これも、意地悪な見方、穿った見方をすると、次のような教育風景が見えてきます。

 教員の質の変化がその根底にあるかと思います。今後10年で、50歳以上のヴェテラン教員の35%が現場から去ることになる。残りの40代の教員が20%、30代が15%と人数がじり貧状態、そこで、政府は危機感を抱き、近年、急遽20代の教員を30%近く一斉大量採用してきた経緯があるのです。これでは、十年後の教員の質が予想されます。教員の質の低下は、この場では、詳しくは論じませんが、確かに、共通一次試験世代、センター試験世代、800満点世代、科目数減での受験可世代といったように、基礎学力、知識、知性の観点ですが、それは、林修氏が、主張されている、東大生の質的低下と同じ下降線を、教師もなぞっている現実は否定できません。その根拠は、『尊敬されない教師』(諏訪哲二){ベスト新書}、『残念な教員 学校教育の失敗学』(林純次){光文社新書}などをお読みいただくと、現場の教師の立ち位置がはっきりとしてきますが、私個人の、教師の質の低下の原因なる意見を持っていますが、今は語りません。別の機会にお話しします。

 そうです、この実態を政府は、懸念しているはずです。だったら、従来の共通一次世代を経た、50歳代の教師のスキルという知的遺産など不要な手法、つまり、生徒に自主的に、一種、塾でも同類ですが、体のいい自習形式の、教えない、教えなくてすむ、教師の力量に左右されない教育手法アクティブ・ラーニングなるものが採用されようとしているのです。これからは、教師の技能・能力・資質などに左右されなくてもすむ、予防策、セイフティーネット、言い方を変えると、現場放り投げ、現場おっぽり主義、こうした無責任体質が、今般のアクティブ・ラーニングの正体なのです。

 結論を言いましょう。ゆとり教育が、実は、教員の週休二日制のカモフラージュ、そして、アクティブ・ラーニングなるものが、教員の質の低下予防策のカモフラージュ、これが、政府主導による教育改革の実体なのです。

 再度申し上げます。

 

 「今の‘教育改革’とは、教育問題ではなく労働問題です」(三宅晶子)


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