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コラム
カリスマ英語講師安河内哲也氏の言説
2020年1月21日(火)の朝日新聞の教育欄の記事です。
東進ハイスクール講師安河内哲也氏{※文部科学省の「英語教育の在り方に関する有識者会議」委員という経歴の方で す}のものです。
英語民間教育試験見直しに関しての意見です。以下の①から③は安河内氏の発言の一部です。因みに、※印は私のコメ ントです。
高校生は英語で自己表現したいんです
①大学入学共通テストで英語民間試験活用が突然見送られたのは衝撃でした。
※さすが、国の委員を務められた方だけあって、失望の念は、下村博文や安西祐一郎並みの激震感であったことだろうと思われます。
②そもそも、多くの高校では、入試に出ないことは省かれてしまいます。多くの高校生の目標である大学入試で4技能を測れば、高校の英語教育でも迷わず4技能を教えられます。
※この多くの高校こそ、問題校であり、文科省は、教育Gメンなどで監視すべき対象なのです。昔、世界史未履修問題で、一部の高校生が卒業できない問題がありましたが、これこそ、②と同じ病根です。これは、人生の最重要儀式を人質にする老獪で陰湿ないじめ的改革であると断言できます!
③話している時の子どもの表情は生き生きしていますよ。「英語がしゃべれるようになりたい」と言います。自己表現をしたいんです。
※これは、我が子の気持ちが、全ての子どもの気持ちであると思い込んでいる母親と同じ論理であります。小学生、中学生、そして、高校になってまで、英語を話して生き生きした顔をしている生徒がいれば、皮肉まじりに申しあげれば、その高校生はメンタルが小学生並みと言えましょう。
以上の言説から見えてくる英語学習の光景を想像してみて欲しいのです。
①に関してですが、やはり、体制派の思惑、自身が布教している英語貧困層のさらなる入信、取り込みに落胆した心情がうかがえます。英語できない6割層を、更に増やそう、中間層をも減らそう、切り崩そうという、一種、英語できない組に国の英語教育レベルを下げようとする“英語教育知的共産主義”とさえ言える信条が見え隠れします。
③に関してですが、安河内信派の生徒さんという母集団を考えてみて欲しいのです。
彼の執筆する、英語学習ノウハウ本、英語参考書などの売れる傾向、そして購買層です。極論ですが、彼の本にすがる信者は、英語挫折組、英語失敗組です、英語環境(=学校・教師に恵まれなかった)不幸組です。
そもそも、新自由主義が経済において、1割の富裕層、3割の中間層、そして6割の低所得層と雑駁ながら社会の分断層化の思わしくない実態を招いてきたことは、グローバル化の弊害の一つであります。実は、この点、教育にも該当するのです。これは、日本に限定して申し上げれば、1980年代から90年代まで、大学のレジャーランド化が進みましたが、その当時の大学生の知的レベルよりも、現代(2010年代以降)の方が、大学の講義に出席率が、格段に上昇したにも関わらず、下であるとさえ言いえる点であります。これは、中等教育の劣化が原因です。昭和時代は、中学・高校と実用化教育云々以前に、知的な5教科を学んでいました。しかし、英語に象徴されるように、読解や文法はやせ細り、コミュニケーション英語だの、オーラル英語など、正社員が減り、派遣社員が増えていった如く、英語という教科の体質が“骨粗鬆的なカリキュラム”{※英語の授業の英会話学校化}と成り下がっていったのです。
高校での実用主義が、生徒の大学での実用主義にまで波及し、「真面目に出席した方が、何か、将来役に立ちそうだぞ」と大学生に<姑息な幻想>を抱かせる羽目になったのです。これが、大学の専門学校化を象徴している学生メンタルです。
話しを③に戻します。高校生においても、天才・秀才ゾーンは1~2割、努力派・がり勉派は3割、そして、落ちこぼれ・できない派が6割となっているのが、中等教育の現状です。昔は、このミドルゾーンは、少なくても、5割はいたはずです。経済同様、教育においても、この中間層の激減を誰も指摘しません。
アイロニカルに申し上げれば、安河内氏のお客さん(信徒)は、この知的低所得層なのです。善意に解釈すれば、安河内氏は、この<知的貧困層>=<教育のグローバリズムの悪影響を受けた中高生>の救い手でもあります。ちょうど、平安時代から鎌倉時代への移行期、貴族ではなく、庶民に救いの手を差し伸べた法然や親鸞の如きに、「英語なんて簡単さ!」とふれ回り、<南無阿弥陀仏的音読>を唱えれば救われると布教している新興宗教的英語教師でもあるのです。当然ながら、英語で救われない、英語煩悩から抜け出せない生徒・学生・社会人は、彼にすがるのは必定であります。
これは、誰も指摘しませんが、安河内氏、いや、大方のカリスマ英語教師というものは、下は、小学生から、中学生、高校生、そして、上は、大学生から社会人までお客様であるケースが多いものです。こうした<何でも屋の英語教師>が、大学受験という、日本独特の、ある意味、“良い”知的関門{※成人になるためのイニシエーション}に「教育改革が必要だ!」だと口を挟むと、ゆくゆくこの国の将来を担ってゆく知的若者層を絶滅させてしまうことになる点を誰も指摘しません。この安河内哲也という英語講師は、インターナショナルスクールの小学生、私立だと早慶上智、国立だと、東大京大から旧一期校あたりの受験生、そして、中等教育で英語授業に恵まれてきた者(文法・構文・読解をきちんとやってきた者)、そして、大学で中等教育で<読み・書き>の土台が出来上がっていて、それに高等教育(大学)で、動機・目的{※将来の仕事と学ぶべき英語の方向性}を見出し、そこから<話し・聞く>英語へと飛躍させた社会人には、無縁・疎遠の存在であると断言できます。この安河内氏の英語のお得意様は、初等教育から高等教育にいたるまで、国の、文科省の英語教育方針・カリキュラムの被害者なのです。いや、その受難者は、その生徒が通われてる学校のケース、その生徒が習っている教師自身に原因があるのも当然あるでしょう。
②に関してです。これは、<受験刑務所>という合格実績絶対最優先主義の、<見たくれ進学校>と、大学教育での生徒の伸びしろを熟慮・考慮・配慮してのカリキュラムを組んでいる、<真の進学校>との違いであります。
たとえば、東大や国公立大学医学部への進学率が高い全寮制の中高一貫校がありますよね。ここだけの話しだけど、ああいう学校の一部の実態は、「受験刑務所」だからね(笑)。学校が3時に終わって5時までは課外授業の時間なのですが、宿舎には9時まで入らせません。その間自習室で勉強していなければならない。そういうふうにして受験勉強を徹底してやらせる、その習慣を身につけさせるんですね。だから、あれなんて私に言わせれば、カトリックの神学校のやり方をそのまま導入した「受験刑務所」なんです。
あるいは、最近になって急に東大・早稲田・慶應への合格者が伸びているような私立の中高一貫校がいくつかあるでしょう。ああいうところの中にも実は「教育」という観点からは、あまり良くない学校がある。なぜか。一人ひとりの生徒の将来よりも、「どの大学に生徒を何人入れたか」ってことが学校にとって最大の目的になっているからです。それだから本人の適正とはまったく関係なしに、そのまま文系に決めてしまう、数学や物理は捨てさせて国語と英語に特化させて早慶を狙わせる、なんてことを平気でするわけですよ。医師として適正がありそうかどうか、などということは考えずに、成績が優秀ならば、「君は医学部へ行きなさい」と医学部へと送り込む。
でも、考えてみてください。それでその生徒は本当に将来、幸せになれるでしょうか?
『埼玉県立浦和高校 人生力を伸ばす浦高の極意』佐藤優 杉山剛士(浦和高校校長)講談社現代新書より
以上の<受験刑務所>の体のいい学校が、日本国内に跋扈しているのです。そのような、<見たくれ進学校>の英語の授業などもどんな授業か目に見えてきます、容易に想像すらできます。2020年度から実施される予定だった、英語民間試験とその理念、<読み・書き・話し・聞く>という4技能優先の試験を実施していたならば、上智やSFCなどのキャンパスによく見かける帰国子女で、数学はもちろん駄目、歴史に関しても、奈良から昭和まで、その大まかな時代名称が言えない大学生を多数<排出>する羽目になっていたかもしれません。よくタレントに見かける、英語の発音はネイティヴながら頭が空っぽの学生を今般の英語新テストで合格させる<裏口ルート>を作り出す事態となっていたのです。
2022年度から高校の現代文の2年以上の教科書が『論理国語』と『文学国語』に分かれるとの愚策も同様です。灘の橋本武先生の伝説の国語の授業“「銀の匙」をよむ授業”を行えるような進学校ならば、『文学国語』を選択するでしょうが、受験刑務所的進学校ならば、『論理国語』を選択するはずです。実は、この両者のどちらを取るかが、真の進学校か否かのリトマス試験紙となると私は睨んでいるのです。世の親御さんは、その点をよく考慮して中高一貫の私立中学校受験を決めなくてはなりません。
「英語でしゃべりたいんです」「英語で自己表現したいんです」と言い張る中学生・高校生は、失礼ながら、英語の負け組です、いや、文科省の英語教育方針の被害者です。実は、こうした英語教育の受難者を、増殖させよう、将来伸びしろのある、知的中間層すら絶滅危惧種へと追いやる愚策が、今般の、使える英語という<イデオロギー的スローガン>の下、英語民間試験強硬する直前にまで至ったことの顛末だったのです。
今や、高校から大学にかけて教育に関して鋭い意見を述べられている佐藤優氏とこの安河内哲也氏を討論(対談)の土俵にあげて、現在超売れっ子現代文カリスマ国語教師林修氏に行事(審判)を仰げば、私が主張することが、決して皮肉でもなく、揶揄でもなく、真の穿った見方であることが歴然とする、明白となるのではないかと思います。
個人的意見でありますが、中学や高校の文科省検定教科書、クラウンやホライズンなどを限られた時間の中で教わっても英語なんて<読み・書き>は当然、<話す・聞く>能力などつくはずもありません。検定外教科書でもあるプログレスやニュー・トレジャーなどで、それなりの英語教師{※拙書『英語教師は英語ができなくてもよい!』を参照}に中学で習い、高校では、その学校独自の教材(教師作成のプリントや非市販学校向け補助教材)で鍛え上げられて始めて、英語の勝ち組となるのです。その勝ち組のメルクマールは、高校卒業時点ではありません。大学卒業時点であり、時には、20代後半の社会人の或る時機かもしれません。ですから、高校卒業時点、大学入試の関門で<話す・書く>試験は不要、それは、極論かもしれませんが、高等教育で行っても構わない、いや、むしろそうすべきなのです。
「高校時代は、小さな完成品より、大きな未完成品をつくることだ」(阿川弘之)
これに則り、中等教育のカリキュラムを行っているか否かが、受験刑務所の烙印を押される、押されないの分岐点ともなっているのです。
最後に申し添えておきますが、安河内氏の周囲には、英語がしゃべりたいという生徒が集まってきます。彼が、指導している私立の女子校の関係者にも該当します。英語の負け組、英語の蹴躓き組です。
浪人生がまだ多かった時代です。大手予備校の講師室に、その信派、ファンが取り巻きのようにいつも質問などないのに、たむろ雑談している光景を目にしました。安河内氏に「英語がしべれるようになりたい」「英語で自己表現がしたい」と愚痴る生徒は、それと似た存在です。安河内氏は、自身の身の回りの生徒をだしにして、確信犯的に、日本中のすべての中高の生徒が「英語がしゃべれるようになりたい」「英語で自己表現したい」と同じ考えにいると主張する、いわば、牽強付会的教育アジテーターです。実は、こうした生徒は、“大学”ではなく、“専門学校”に行きたい種族です。大学に入学しても、知的な事柄には、興味がわかず、理解もできず、実用英語を目的に、短期留学したり、格安なフィリピン英語語学留学などにゆくタイプです。
高校卒業後、日本の大学はもちろん、アメリカの大学にも入れず、アメリカのコミュニティー・カレッジに進もうとする者と同じ気質の生徒たちです。
改革!改革!と叫べば、全て物事は改善されるという幻想を抱いている政治家・教育者・実業家・知識人が多いものです。これは、ビジネスの手法です。経済に軸足を置くならば、「変化への対応」これこそ、鉄則だからです。コンビニの惣菜やスイーツが毎月毎月改良されて、消費者のニーズに適応して、セブン、ファミマなど生き残り、成長してきたのです。ビジネスと教育は違うのです。ビジネスは文明の範疇に入りますが、教育は文化の根底です。文明が進歩しても、文化は進歩はしません、文化を改革すれば、それは、文化の消滅を意味します。因みに、伝統は、微調整して、生まれ変わってゆくものです。環境、時代との格闘です。不易流行、温故知新そのものです。
進化とは決して劣ったものから優れたものへと進歩することではないのです。
『大人の教養』(池上彰)NHK出版新書より
「適応」を専らにするのは「進歩なき進化」である。
『保守の真髄』(西部邁)講談社現代新書より
2020年2月 4日 18:14