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HOME > コラム > Z世代の文化観は、是ではなく非である!
コラム
Z世代の文化観は、是ではなく非である!
最近、【倍速視聴(族)】なる用語が、巷に流布している。ドラマ・映画はもちろん、バラエティー番組からニュースまで、画像を倍速で観る部族をいうそうだ。彼らは、オンライン授業でも、先生や講師の画像を二倍速で観て、情報をスキャンすれば、それで用足りとする。【効率主義】というか、【コスパ思想】の生活への浸食現象とも呼べるような風潮である。温暖化が、沖縄のサンゴ礁を死滅させている現象と比肩また、暗喩できるとも言える。
また、音楽配信、ストリーミングたけなわの令和、サブスクリプションで、好きな歌を、瞬時に、アトランダムにスマホなどで聞いている人々の趣向である。それは、彼らがイントロというその楽曲の数十秒の出だしの間合いに耐えられない、興味なし、したがって、イントロの長い楽曲は見向きもされぬというか、数秒で撥ねられ、聞く耳をもたぬともいう。そのため、音楽業界では、【イントロのない、いきなり歌い出しの楽曲】を作る傾向にあるという。即、その楽曲のサビ、メインのメロディーを最初に組み込む、もってくる曲調になっている、いや、そうなるように作曲されているともいう。ボーカロイド曲にその典型がうかがえるし、米津玄師やYOASOBIやADOなどの曲調もそうである。最初の数秒が、聞いてくれるか、くれないかの分岐点になるともいう。イントロのない楽曲が、これからの主流ともなるとある音楽関係者は口にしている。
こうした、【倍速族】にしろ、【イントロ不要族】にしろ、彼らは、いわゆるZ世代とも重なっている。10代から26~7歳の世代である。彼は、ティックトック世代であることも、映像・画像にしろ、音楽にしろ、【文化のコスパ思想に染まった部族】であることは首肯できる。ティックトックなどは、20秒足らずの映像を、何回、何十回と片手で操作しながら楽しんでいる気質が、娯楽のドラマから大学のオンライン授業に至るまで、倍速で早送りで内容・情報を得ることのみに汲々としているせわしないデジタル世代の陰の側面を映し出しているとも言える。
今や、Z世代は、経済においては、“超是”の存在、市場調査で、マーケティング等で無視できぬ存在であるという。日本の人口でいう、15%しか占めないこのZ世代は、デジタルネイティブであることが、大きな、その要因でもある。日本は、少子高齢化社会であるにもかかわらず、その15%のマイノリティーに消費行動において尻尾を振っている滑稽な現象が起こってもいる。これは、パソコンやスマホの使い方を、親が我が子に教えを請う時代の姿がそれを証明してもいよう。パソコンスクールの講師が、スマホのアドバイザーが、Z世代でもある我が子なのだ。そのツールの先導者に、時代のコンテンツまで影響、支配されつつあるというのが、現代日本の家族・社会の肖像となっている。
では、次に政治である。これも、環境問題やLGBTなど、Z世代は前向き、享受して肯定派が多い。彼らの観点は、政治においても“是”である。多様化社会の申し子ともいえるのが、ある意味、Z世代であるからだ。
それでは、文化という観点から、Z世代はどう判別すべきなのか?それは、私的には、若干、非といわざるをえない。それは、何故か、彼らの生きるモットー、主義とやらは、効率主義、つまり、コスパ思想とやらに、毒されている、いや、染まっているからである。はっきり申し上げるが、文化というものは、むしろ、無駄からしか生まれない、無為・無目的から誕生する。このZ世代が、一番毛嫌いするのが、この無駄・無目的という行為である。様々な日常の行為に、無駄を省き、効率の行き着く先は、目的を追い求め、無為なる日常を避ける気質が見え隠れするのである。
「人生で無駄なことは何一つない」とは秋元康の弁だが、Z世代は、「こんなこと学んでも無駄だ」「こんなことしても何の役に立つのか?」という秋元のいう“無駄の効用”を回避、無視して勉学なり仕事をしている毛色が非常に気になる。これは、楽曲のイントロを聞かない、無視する傾向にものの見事に表れてもいる。無駄に耐える気質が欠落してもいる。
こうした気質は、カラヤンのベートーベン交響曲全集(EMI)を、バーンスタインのマーラー交響曲全集(SONY)を、それぞれ数時間で早送りで聞いて、良い悪いと印象を語ったり、黒澤明や小津安二郎の全ての映画を数倍速で観おおせて、よかった、わるかったと、そのストーリーを批評する行為とも言える。
だから、私は、Z世代の文化への向き合い方を、若干だが、非と裁断したわけである。
経済・政治と文化とは、根底では、ある意味、つながってもいたのが、パソコン、カセットテープをウォークマンでジョギングしながら聴いてた、ソニーが世界を席捲していた時代である。ソニーの盛田昭夫が、あのカラヤンをマーケティング戦略で取り込めた時代である。ソニー製品が、S・ジョブスを魅了した昭和である。庶民は、大枚をはたいて、高価なレコードを買い、それをテープに録音し、移動の最中ウォークマンで聴いてもいた時代である。<強い経済が分母・豊かな文化が分子>、それを規定していたのが“バブル前後の宴の日本社会”でもあった。いや、高度成長期の日本もそうであっただろう。50~60年代のパックスアメリカーナが、世界中が憧れるアメリカサブカルを作ったことによっても、それが証明されよう。
今やデジタルという怪物が、サブスク配信を始め、消費者は、好きな曲を、好きなだけ、すきな箇所だけ、つまみ食い(ストリーミング)をするご時世である。昭和のアーティストのアルバムを最初から一見無駄のように聞きながら、自身の名曲、隠れた名曲、そうした楽曲を掘り当てたり、魅了されたりし、それが、後に陽の目を見る(ミリオンセラーになる)ことはざらにあった。作り手と聞き手の間に介在していた、文化的無駄の効用とやらである。
このZ世代における、文化を伝えるツールとしてのスマホの主役としての立ち位置、それは、マーケティング戦略上、重要である、無視できぬ存在であると言った観点から、令和の若者の発信する文化のコンテンツも是とする風潮、迎合する空気、それにモノ申す知識人が、いないことが危惧される。むしろ、それが時代の文化であると肯定して全く疑わない輩が多いのである。「起きていることはすべて正しい」(勝間和代)の文脈で文化を語りたがる連中である。
若者の支持絶大のミュージシャンのあいみょんにしろ、Miletにしろ、父親からの影響とも語っていた、井上陽水や財津和夫の楽興へのリスペクトの姿に思いを馳せると、どうも、このZ世代の消費者は、無意識に昭和へのノスタルジー、昭和という大衆音楽全盛期文化に魅了されているといってもいい。
Z世代の我が子に趣向を合わせてもいる50代以上の昭和世代には、理解不能かもしれないが、今や、紙ジャケのレコードブームの到来、レコードの音質・音色への本物志向、そして、シティーポップ(山下達郎・竹内まりやなど)ブーム。昭和後半から平成中頃までに生まれた名曲、それが日本の歌謡曲という芋虫とも言えようか。それがニューミュージックというさなぎを経て、美しい蝶として世界に羽ばたいた現象こそ、シティーポップブームの証明でもあろう。更に、西武園遊園地の昭和レトロ回帰による立て直し、成功事例など、もはや、平成後半以降には、日本には、独特・固有の文化が誕生していない証左でもあろう。スーパーモデル富永愛が、女子高生として、制服姿で、ラルフローレンのカーディガンをはおり、そしてルーズソックスを履いた姿がVOGUEの雑誌に載った、その頃が、平成サブカルの峠(頂点)でもあっただろうか?
「止まっている時計は、日に二度合う」(秋元康)ではないが、24時間周期で、自身の止まっている時刻が、やってくるという真実が、音楽やファッションといったサブカルを概観すると納得もさせられる令和4年、平成34年、昭和97年の秋冬である。
スマホで、写メを撮り、画像修正して、SNSに配信なぞしても、何ら文化は生まれはしない、また、サブスクで聞いた音楽なんぞは、自身が親になっても我が子に聞かせる音楽なんぞになりはしない。新海誠のアニメとコラボした音楽くらいが、その後、親子の会話の絆として、話題として残るやもしれないが、音楽文化そのものとして残り続けるか否か、それは、消滅してゆくと予言してもいい。ジブリの音楽を、聞けば明白である。荒井由実や加藤登紀子の楽曲が、久石譲の曲が採用されているではないか。平成でも、音楽は昭和に依存していた。これは、令和になっても、平成の音楽に依拠せざるをないアニメが生まれる予兆である。しかし、ポスト令和の時代は、令和の文化(?)を取り入れるサブカルなど存在しないと予言しておこう。
また、音楽配信、ストリーミングたけなわの令和、サブスクリプションで、好きな歌を、瞬時に、アトランダムにスマホなどで聞いている人々の趣向である。それは、彼らがイントロというその楽曲の数十秒の出だしの間合いに耐えられない、興味なし、したがって、イントロの長い楽曲は見向きもされぬというか、数秒で撥ねられ、聞く耳をもたぬともいう。そのため、音楽業界では、【イントロのない、いきなり歌い出しの楽曲】を作る傾向にあるという。即、その楽曲のサビ、メインのメロディーを最初に組み込む、もってくる曲調になっている、いや、そうなるように作曲されているともいう。ボーカロイド曲にその典型がうかがえるし、米津玄師やYOASOBIやADOなどの曲調もそうである。最初の数秒が、聞いてくれるか、くれないかの分岐点になるともいう。イントロのない楽曲が、これからの主流ともなるとある音楽関係者は口にしている。
こうした、【倍速族】にしろ、【イントロ不要族】にしろ、彼らは、いわゆるZ世代とも重なっている。10代から26~7歳の世代である。彼は、ティックトック世代であることも、映像・画像にしろ、音楽にしろ、【文化のコスパ思想に染まった部族】であることは首肯できる。ティックトックなどは、20秒足らずの映像を、何回、何十回と片手で操作しながら楽しんでいる気質が、娯楽のドラマから大学のオンライン授業に至るまで、倍速で早送りで内容・情報を得ることのみに汲々としているせわしないデジタル世代の陰の側面を映し出しているとも言える。
今や、Z世代は、経済においては、“超是”の存在、市場調査で、マーケティング等で無視できぬ存在であるという。日本の人口でいう、15%しか占めないこのZ世代は、デジタルネイティブであることが、大きな、その要因でもある。日本は、少子高齢化社会であるにもかかわらず、その15%のマイノリティーに消費行動において尻尾を振っている滑稽な現象が起こってもいる。これは、パソコンやスマホの使い方を、親が我が子に教えを請う時代の姿がそれを証明してもいよう。パソコンスクールの講師が、スマホのアドバイザーが、Z世代でもある我が子なのだ。そのツールの先導者に、時代のコンテンツまで影響、支配されつつあるというのが、現代日本の家族・社会の肖像となっている。
では、次に政治である。これも、環境問題やLGBTなど、Z世代は前向き、享受して肯定派が多い。彼らの観点は、政治においても“是”である。多様化社会の申し子ともいえるのが、ある意味、Z世代であるからだ。
それでは、文化という観点から、Z世代はどう判別すべきなのか?それは、私的には、若干、非といわざるをえない。それは、何故か、彼らの生きるモットー、主義とやらは、効率主義、つまり、コスパ思想とやらに、毒されている、いや、染まっているからである。はっきり申し上げるが、文化というものは、むしろ、無駄からしか生まれない、無為・無目的から誕生する。このZ世代が、一番毛嫌いするのが、この無駄・無目的という行為である。様々な日常の行為に、無駄を省き、効率の行き着く先は、目的を追い求め、無為なる日常を避ける気質が見え隠れするのである。
「人生で無駄なことは何一つない」とは秋元康の弁だが、Z世代は、「こんなこと学んでも無駄だ」「こんなことしても何の役に立つのか?」という秋元のいう“無駄の効用”を回避、無視して勉学なり仕事をしている毛色が非常に気になる。これは、楽曲のイントロを聞かない、無視する傾向にものの見事に表れてもいる。無駄に耐える気質が欠落してもいる。
こうした気質は、カラヤンのベートーベン交響曲全集(EMI)を、バーンスタインのマーラー交響曲全集(SONY)を、それぞれ数時間で早送りで聞いて、良い悪いと印象を語ったり、黒澤明や小津安二郎の全ての映画を数倍速で観おおせて、よかった、わるかったと、そのストーリーを批評する行為とも言える。
だから、私は、Z世代の文化への向き合い方を、若干だが、非と裁断したわけである。
経済・政治と文化とは、根底では、ある意味、つながってもいたのが、パソコン、カセットテープをウォークマンでジョギングしながら聴いてた、ソニーが世界を席捲していた時代である。ソニーの盛田昭夫が、あのカラヤンをマーケティング戦略で取り込めた時代である。ソニー製品が、S・ジョブスを魅了した昭和である。庶民は、大枚をはたいて、高価なレコードを買い、それをテープに録音し、移動の最中ウォークマンで聴いてもいた時代である。<強い経済が分母・豊かな文化が分子>、それを規定していたのが“バブル前後の宴の日本社会”でもあった。いや、高度成長期の日本もそうであっただろう。50~60年代のパックスアメリカーナが、世界中が憧れるアメリカサブカルを作ったことによっても、それが証明されよう。
今やデジタルという怪物が、サブスク配信を始め、消費者は、好きな曲を、好きなだけ、すきな箇所だけ、つまみ食い(ストリーミング)をするご時世である。昭和のアーティストのアルバムを最初から一見無駄のように聞きながら、自身の名曲、隠れた名曲、そうした楽曲を掘り当てたり、魅了されたりし、それが、後に陽の目を見る(ミリオンセラーになる)ことはざらにあった。作り手と聞き手の間に介在していた、文化的無駄の効用とやらである。
このZ世代における、文化を伝えるツールとしてのスマホの主役としての立ち位置、それは、マーケティング戦略上、重要である、無視できぬ存在であると言った観点から、令和の若者の発信する文化のコンテンツも是とする風潮、迎合する空気、それにモノ申す知識人が、いないことが危惧される。むしろ、それが時代の文化であると肯定して全く疑わない輩が多いのである。「起きていることはすべて正しい」(勝間和代)の文脈で文化を語りたがる連中である。
若者の支持絶大のミュージシャンのあいみょんにしろ、Miletにしろ、父親からの影響とも語っていた、井上陽水や財津和夫の楽興へのリスペクトの姿に思いを馳せると、どうも、このZ世代の消費者は、無意識に昭和へのノスタルジー、昭和という大衆音楽全盛期文化に魅了されているといってもいい。
Z世代の我が子に趣向を合わせてもいる50代以上の昭和世代には、理解不能かもしれないが、今や、紙ジャケのレコードブームの到来、レコードの音質・音色への本物志向、そして、シティーポップ(山下達郎・竹内まりやなど)ブーム。昭和後半から平成中頃までに生まれた名曲、それが日本の歌謡曲という芋虫とも言えようか。それがニューミュージックというさなぎを経て、美しい蝶として世界に羽ばたいた現象こそ、シティーポップブームの証明でもあろう。更に、西武園遊園地の昭和レトロ回帰による立て直し、成功事例など、もはや、平成後半以降には、日本には、独特・固有の文化が誕生していない証左でもあろう。スーパーモデル富永愛が、女子高生として、制服姿で、ラルフローレンのカーディガンをはおり、そしてルーズソックスを履いた姿がVOGUEの雑誌に載った、その頃が、平成サブカルの峠(頂点)でもあっただろうか?
「止まっている時計は、日に二度合う」(秋元康)ではないが、24時間周期で、自身の止まっている時刻が、やってくるという真実が、音楽やファッションといったサブカルを概観すると納得もさせられる令和4年、平成34年、昭和97年の秋冬である。
スマホで、写メを撮り、画像修正して、SNSに配信なぞしても、何ら文化は生まれはしない、また、サブスクで聞いた音楽なんぞは、自身が親になっても我が子に聞かせる音楽なんぞになりはしない。新海誠のアニメとコラボした音楽くらいが、その後、親子の会話の絆として、話題として残るやもしれないが、音楽文化そのものとして残り続けるか否か、それは、消滅してゆくと予言してもいい。ジブリの音楽を、聞けば明白である。荒井由実や加藤登紀子の楽曲が、久石譲の曲が採用されているではないか。平成でも、音楽は昭和に依存していた。これは、令和になっても、平成の音楽に依拠せざるをないアニメが生まれる予兆である。しかし、ポスト令和の時代は、令和の文化(?)を取り入れるサブカルなど存在しないと予言しておこう。
2022年11月21日 16:53